◆眠れる君は青い薔薇◆ こんなちょっとの時間に眠ってしまうとは…。 青い薔薇に囲まれて、穏やかな寝息を立てている雲雀を見下ろしながら、ディーノは苦笑をした。 らしいといえば、らしいのだけど。 しゃがみ込み、雲雀の鼻先をちょんとつつく。 微かな刺激に応えることなく、雲雀は眠り続けている。 その眠りの深さにディーノは再び苦笑する。 そっ、と顔を寄せ雲雀に囁いた。 「まだ蕾だったよ」 珍しい所に連れていってやる、と雲雀を誘い出した。 口実なんて何でもよくて、ただ口実がないと雲雀と会う機会がなかなかなかったから、ディーノは捻り出すようにその口実を作った。 明確に、どこで何をしよう、としない、少しだけ謎めいた口実を。 こういう謎に雲雀の好奇心が押えきれないのも、折り込み済みだった。 案の定、「珍しい所…?」と呟いてきゅっと眉をしかめて、つまらない所だったら殺すからねという視線をディーノに投げかけながら、「いつ?」と言葉短かに尋ねたのだ。 「今から」 いたずらっ子のように破願するディーノ。対象的に、雲雀は苦虫を踏み潰したような顔になった。 何もない道をひた走り、車は都市部から郊外へと向かう高速道路に乗った。 また、郊外に別荘でも買ったのかと雲雀は細く開けた窓から吹き込む風に顔を晒しながら考えた。 実は車に弱いのだ。 自分で運転している時はまったく問題ないのだが、誰かの運転する車になると話は別だった。用心のため、人の車に乗り込む時にはつい癖で窓を数センチ開けてしまう。それが命取りになる場合もあるだろうけど、幸いにしてまだ数センチの隙間を縫って弾丸が飛んできたことはなかった。 勿論、ディーノの私用車の窓ガラスは防弾仕様になどなっていなくて、窓を開けていようがいまいがあまり違いはないのだが。しかしながら、このガラス1枚という僅かの差が、人の生き死にを分ける時があり、それが運命と呼ばれることもあるのだと雲雀はここ数年で嫌という程分かっていた。 分かっていたが、長年身に付いた習性というのはなかなか抜けないものなのだ。 「窓、もっと開けていいぞ」 言葉通りに、雲雀は窓ガラスを三分の一位まで開ける。 風の直撃からは免れ、対流の関係で髪と頬に心地よい風を感じることができる丁度いい間隔なのだ。 「気分悪かったら言えよ」 ため息をついた雲雀に、ちらりと視線を遣りディーノが何気なく言った。 「大丈夫…」 そっけなく答え、爽やかな初夏の風に吹かれながら、雲雀は気持ちよさそうに目を瞑った。 「ちょっと寝るから」 着いたら起こして、とは言わなかった。 言わなくても、微笑むディーノは全てを了解しているようだったから。 ガタン、という振動で雲雀は目を醒ました。 目的地に着いたのか、と思いうっすらと目を開けると、そこにはのどかな田園風景が広がっていた。 高速を降り、田舎の道に入り込んだらしい。道の整備がさほど進んでいないのか、それとも農作業用の重機がよく通るのかは分からないが、道は所々でこぼことしていて、この車のクッションでも吸収しきれない振動を生み、シートベルとを支えに利用しながら座席とドアの間に凭れかかっている雲雀にその振動を伝えていた。 車は、特徴のない、似たような違う場所を何度か通り過ぎる。迷っているのではないだろうかと不安になる程そっくりな風景ばかりだった。今日使用している車に、カーナビゲーションシステムなどという無粋なものは付いていない。仕事で利用する黒塗りには最新鋭のシステムを搭載させているのだが、個人的な車にまでそんなものを載せるのはディーノの主義に反するらしく、明らかに私的な趣味の車には昔ながらの使い古されたロードマップだけが常備されているのだ。 雲雀の心配も杞憂に終わり、ディーノは迷いなく右折したり左折したりしながら、明らかに私道のの入り口らしき道に入り込む。 門をくぐると、土の露出した一本道の両側に等間隔に大樹が植わり、その下地には小さな植物が群生していた。自然さを装っているが、明らかに人工的に演出された自然が続いている。 それでも、その美しさに安らぎを感じ、風景に目を楽しませているうちに車は石造りの古い屋敷の前へと到着した。 ドアの鍵が開く音に続き、隣に座っているディーノが動く気配がした。 車の余熱にひたるかのように、雲雀は座席に凭れかかったまま動かずにいた。 コンコン、と窓ガラスを叩く音がして、目を上げると優しく彩られた鳶色の瞳が笑っていた。 「着いたぞ」 雲雀が体を戻すのを確かめてから、ディーノが車のドアを開け、 「どうぞ」 シートベルトを外した雲雀に手を差し伸べた。 屋敷に入るのかと思いきや、ディーノはシンメトリーに設計された庭園を抜け、屋敷の裏側へとまわって行く。 ここはどこ、とか、誰の家、とか、何をするの、という基本的な質問を口にしても、多分ディーノは「着けば分かるさ」と笑って誘うのだろうと思い、何も口にしないまま雲雀はディーノに手を引かれ歩いていった。 蒼い空がやけに綺麗に思えて、強い日差しを肌で感じる。 こんなに静かなところで、彼と二人で散歩の真似事をするとは、全く予想をしていなかった。 そして、それが心地いいとは。 かさかさと草が揺れる音がする。 歩く二人に下草が絡まり触れて、弾かれていく。 いつの間にか、手入れのよく行き届いた庭から、裏の畑のようなところへ来たらしい。 不意に、強い芳香が辺りに満ちる。 目に飛び込んできたのは、様々な青い色。 黒に近い青から、紫に近い青。透明な水に一滴の青インクを落としたような、ほとんど色のない白のような青。 「すごいだろ」 ディーノが得意げに、雲雀を見て瞳を光らせる。 「……ん」 雲雀は辛うじてこくりと頷くと、色の洪水に目を奪われ、 「青い……薔薇…?」 呟いた。 一面を覆う、幻といわれる青い薔薇。 1種類の花に色の三原色が揃うことがないのが、自然界の掟。ならば、その不可侵の掟に挑戦して、薔薇にはない青の一色を求めて、人工的に作り出された青い色が、艶やかにそして可憐な罠のように咲き乱れていた。 「何、これ」 自然の中にある不自然な自然に雲雀は手を伸ばす。 ぽきりと茎を折ると、指先に鈍い痛みが拡がっていった。 緩慢な動きで、肌を観察する。 刺さっていたのは、太い棘だった。 雲雀は少しだけ小首をかしげ、それを引き抜く。指先から痛みが引いた。 少し遅れて、ぷつりと血液が小さな球を作るかのように白い指先に盛り上がる。 すっとディーノが雲雀の手を取り、躊躇いなく口に含んだ。 鉄の味がディーノの舌を刺激し、一瞬で消えていく。 「消毒」 手を雲雀に返しながら、ディーノが笑った。 返された己の手を見て、雲雀がつっけんどうにディーノに指を突きつける。 「また血が出てきた」 赤い雫がうっすらと盛り上がりはじめていた。 ディーノが意味ありげに眉を上げる。 すっと目を伏せると、忠誠を誓う騎士のようにうやうやしく跪いた。 跪いた姿勢から雲雀の目を見上げ、その指先に触れる。 触れた瞬間、雲雀の指がぴくりと跳ね上がる。 逃がさないようにディーノが雲雀の手首を掴み、そっと顔を寄せる。 手の甲に軽く口付けを落とす。 再び雲雀の指が跳ね上がり、さらりとした皮膚の感触の下で、ディーノはその骨の動きを感じた。 ディーノは指の骨と骨の間の柔らかい部分に唇を這わせる。 ゆっくりと、緩慢に。 たった10センチたらずの移動。 数分の刻をかけ、軽く吸い上げ押し戻し、時々唇の間から舌を覗かせ、つっと肌を押し濡らしていく。 「んっ」 雲雀の口から吐息が漏れる。 次の瞬間、雲雀は息を飲み、ディーノに差し出した手を引っ込めようと動かす。 しかし、ディーノはその手首をしっかりと捕まえ離さず、そして、その唇が雲雀の指と指の間の柔らかい部分へとやってくる。 ディーノは、チュッと音を立て、唇を離すと雲雀を見上げた。 鳶色の目は、さてどうしようか?と意地悪く問いかけているようでもあった。 雲雀はゆっくりと目を伏せ、数秒、瞳を閉じたまま過ごす。そして、さらにゆっくりと目を開く。 二人の視線が交差し、微かに、ほんの少しだけ雲雀が己の手を押し出した。 その僅かな仕草にディーノは雰囲気だけで微笑むと、目線はそのまま雲雀に据えて、桜色をした小指の爪に唇を寄せる口に含めた。 最初は軽く。 唇で挟むように触れる。 爪の先端に沿って舌を這わせ少しだけ歯を立てて甘噛みをする。 そして、徐々に深く、丹念に辿りながらすっぽりと小指の第二関節までを口腔に収め、更に嬲るように弄ぶ。 「っぁ」 絡み付いてくるディーノの動きに、雲雀が息を飲む。 唇で圧力を与えながら、口腔で締めるように包み込み、それを緩める。 その行為の間も雲雀の指は逃げるように縮こまりながらも、ぴくりと時折、反応するのだ。 ディーノは唇を少し開けて、眉を寄せている雲雀を見上げながら、ちゅぷっ、と小指を開放した。 陽光に晒され、艶やかに輝く小指から雲雀は思わず目を背ける。 「まだ4本残ってるぜ」 ディーノは意地悪く言うと、薬指へと唇を移す。 先ほどと同じように、ゆるゆると丁寧に刺激を与えていく。 ディーノの口元を雲雀の小指が引っかくような仕草をし、軽く触れ、離れる。 薬指から中指へと渡り、今度は指と手の付け根の骨の上を目掛けキスを降らした。そこから辿るように、第二関節、第一関節、そして指先へと唇を這わしていく。 「っふ」 体の力が抜け始め、ふら付いた雲雀が、空いていた左手でディーノの肩を掴まえる。 「まだ消毒は終わってないぞ」 軽く腰を支えてやり、血が固まり始めている中指の腹を、つと舌で押す。 痺れるような感覚に雲雀が体を折る。 「も…ぅ……」 左手をディーノの首に絡ませて、地面に膝をついた。 ディーノは雲雀を引き寄せ、もう一度手首に口付けをした。 「もう?」 擦れた声で雲雀の耳元で囁く。 「なん、でも……ない」 精一杯の強がりで雲雀は抗ってみるものの、腰に据えられたディーノの不埒な動きと首筋にかかるふわりとした息に、身を震わせていた。 「なんでもないわけ、ないだろ」 笑いをのせたその声音に、雲雀はきゅっと首に絡ませた手でディーノのシャツを掴んだ。 青薔薇に包まれ、二人は交じり合った。 「ここは何なの?」 気だるい芳香に包まれ、空を仰ぎながら雲雀が訊く。 「ああ」 雲雀の質問にどう答えようかと、半身を起こしていたディーノは少しだけ考える。 薔薇よりも尚青い空を見上げ、言葉を紡ぐ。 「不可能に挑戦する実験場さ」 「何それ…」 ディーノの婉曲な表現に雲雀の目が半眼になる。 「いや、つまりさ」 ディーノは雲雀にこの屋敷について説明した。 曰く、薔薇のブリーダーが故国にいられなくなって、ここに住み着いたこと。故国に居られなくなった理由は勿論割愛された。 そのブリーダーは幻といわれる青い薔薇を作ることに情熱を傾けていたこと。それが生業なのか、趣味が高じたものなのかわ分からないが。 そして、数種類の青い薔薇を作ることには成功したけれど、彼の求める真の青はなかなかできなかった。失意のうちに、というわけではないだろうが高齢なこともあり、最後に交配した株を見ることなく数ヶ月前に亡くなったと。 その屋敷の所有権が何故だかディーノにあり、引いてはこの薔薇たちを生かすも殺すも彼次第だと。その理由は言わなかったが、そう説明した。 「最後の薔薇…」 「興味あるか?」 雲雀を覗き込むようにたずねるディーノに、雲雀は答えるのを躊躇った。 見たいような見たくないような、見てしまったらいけないような、不思議な感情がせめぎ合うのだ。 「咲いたの?」 「さあ?」 雲雀の戸惑いを見破ってか、ディーノはわざとはぐらかすような答えを与える。 「そう」 目を伏せ、呟く雲雀。 柔らかい風が夕刻の冷たさを抱き始めていた。 薔薇の花がふわりと揺れ動く。 まるで波間にいるかのような錯覚を覚え、雲雀はディーノの膝にもたれかかった。 「薔薇が咲いているかどうか」 ディーノは「お前の代わりに見てきてやろうか」と雲雀の頬を撫でると、ひょいと立ち上がる。 そして雲雀を一人その場に残し、薔薇の茂みの向こうへと消えていった。 別にいいのに、と嘯きながら雲雀は横向きになり目を閉じた。 後日、雲雀の部屋の扉に一輪の薔薇が立てかけられていた。 その色は。 心地よい風の流れる初夏の深みを帯びはじめた蒼穹の空色。 遥かなる、いとどひめやかの聖き薔薇よ、われをば被いたまえ…… イェイツ 『秘められし薔薇』 |