◆霧の向こうに◆ 橋の袂でぼんやりと水面を見ながら、行き交う人を観察してしまう。 観光客とおぼしき、アメリカ人の年輩の団体。 マフラーを翻しながらあるく、肩かけ鞄の薄着の学生。 適度の距離をおきながらそれでも家族の親密さを漂わせて帰路を急ぐ母親と娘。 くねくねと入り組んだ路地から現れた正装の男女が通り過ぎていく。 フェニーチェ劇場で催されるガラ・コンサートにでも行くのだろうか。 有名でも何でもない橋の一つで人待ち顔の東洋人がぼんやりとしている。 人の目に自分はどう映っているのだろう。 学生というには身なりが良すぎ。 ビジネスマンというのには若すぎる。 観光客か、と思うには漂わせている雰囲気が浮ついていないのだ。 それでも、完全にこの町になじんでいるとは言い難く。 どこか身の置き所のないような不思議な感覚に彼自身が囚われられていく。 さっきから目の端に入ってくる漂う水のせいで、現実味がどんどん希薄になっていくのだ。 ”Ciao, Hibari!” その声にはっと我に返る。 「すまん、待たせたな」 言葉では謝っているものの全く悪びれていない、遊び心が全面に出ているにも関わらず完璧に黒のスーツを着こなしている金髪の青年。 「遅い」 まだ秋も始まったばかりだというのに、乾いた寒さが足下から忍び寄って来ている。 「悪かった、って。道に迷っちゃってな」 面目ない、と笑う。 「ま、いいけどね」 黒髪を揺らし、金髪の青年を一瞥すと。 「早く行こう」 と三々五々集まってきていた開演を待ちわびる劇場客の群を顎で示し、雲雀が眉をしかめた。 しかし、月明かりと劇場の照明に照らされた雲雀をディーノはしげしげとちょっとまぶしそうに眺めていた。 「うん、よく似合ってる」 雲雀のブラックフォーマルに満足げしディーノは息をつく。 「僕たちの仕事着だしね」 皮肉げなもの言いも水音の消えてしまい、緩やかな波音が響いた。 「さて、行くか」 二人は歩き出した。 ヴェネチィアへ行こう。 そう言い出したのは、ディーノだった。 何事も、プライベートなことに関する限り、大抵のことはディーノの発案でそれを不承不承何かと理由を付けては断りたがる雲雀を宥め賺しながら実行に移すことがほとんどだが、今回も違わずディーノの一言でヴェネチィア行きが決まった。 どうしても行きたい所があるというディーノのスケジュールに合わせるように雲雀も予定もつけ、なんとか1泊2日の滞在がかなった。 名実ともにマフィアのボスであるディーノと、学生兼マフィアという二重生活を送っている雲雀なので、二人で仲良くやってきて、二人で仲良く帰るなど不可能に等しく、各々の都合で現地入りし、市内の観光名所ということでフェニーチェ劇場に一番近いこの橋の袂で待ち合わせということになったのだ。 ここは何度来ても不思議な都市だった。 無数の小島を小さな橋で結び陸地に見立て、水際ぎりぎりまで所狭しと家が建っている。そのため道は狭く、車のような大雑把な現代文明が付け入る隙がなく、人々は皆自分の足と水に浮かぶ舟を頼りに生活している。 普段はしっかりと根付いた生活に隠されている、どこかへ漂ってしまうのではないかという不安定さが時として顔を見せる。 それはもしかしたら、束の間の旅人だけが感じる人生と同じ不安定さなのかもしれないが。 空には月が煌々と輝いていた。 劇場へ観客に逆らいながら歩く雲雀を、人混みから庇うようにディーノはそっと腰に手を当てる。 通り一杯だった人の群から離れると、少し急ぎ足の数人とすれ違いやがて。 石畳に響くのは二人の靴音だけになった。 月明かりが所々に顔を出す水路の水面に反射している。 雲雀の手をつかみ、ディーノは知っているというよりも直感で選んだ道を折れ曲がり、橋を渡る。 二人とも何も言わず、ただ歩いた。 不意に、潮のにおいが強くなる。 視界が開ける。 「サン・ミケーレ島だ・・・」 目の前には陸のように続く小島はなく、地中海が妖しく照りゆらめいていた。 「サン・ミケーレ・・・死者の島」 たった一つの教会と墓地だけの島。 ヴェネチィア本土から少し離れた場所に、そこだけ月明かりも届かないのか黒く闇よりも黒く浮き上がっていた。 「ここの住人が、最後に行き着くところだ」 ディーノの声が低く夜風に消えていく。 黒塗りのゴンドラが一隻。 その島に向かう。 幻のように。 そのゴンドラには、たった1つの棺だけ。 見守る者もなく静かに島へと向かう。 過ぎ去っていく景色。 ふ、と雲雀がディーノを見ると、穏やかな犯してはいけないような静謐さを湛え黙祷を捧げていた。 何があったか類推するのは簡単だったが、雲雀はあえて何も考えずに舟影を見送った。 長いような短いような時間が過ぎ。 「僕たちの還る所は、あそこじゃないね」 帰ろう。 ぽつりと、雲雀が言う。 「ああ、そうだな。・・・帰ろうか」 二人の後ろ姿を、夜霧が優しく包んでいった。 |