◆ されど、遠かりし君 ◆ 最後の一枚となった書類に目を通し、さらさらとサインをする。 透かしが入った上質の紙はインクを素早く吸い込んでいく。 ディーノは、サイン済みの書類の束へとその書類、不動産譲渡に関する委任状を移した。 万年筆の先端を丁寧に布で拭い、キャップを閉める。 机の所定の位置にコトリと置くと、軽く息を吐きだし、肩を上下させた。 「やっと終わった…」 仕事が終わったにも関わらず渋い顔をしたディーノは、山積みになっている書類を睨みつけた。 「ったく、少し休んだだけでこんなに溜るんだからな」 仕事に関する大抵の業務はデータでやり取りをしているので、世界のどこにいようとそれなりの環境さえ整っていれば困ることはほとんどなかった。 だが、最終決裁の段階になると、まだまだ世の中の主流は仰々しい紙媒体であり、そこに直筆のサインをするという行為が必須であるために自分のオフィスでないとできない仕事になってしまうのだ。 ディーノは体の強張りを取るために、リクライニングの利いた椅子にもたれ腕を突き上げるようにして伸ばす。 そして、ため息と共に小さく言葉を吐き出す。 「今回は少し遊びすぎちまったかな…」 つい先日まで滞在していた、遠い国へと、より正確には遠い国へいる彼へと思いを馳せるように目を細めた。 憂うる表情のまま、軽く目を瞑る。 今回の出張、という名目の日本滞在が恋人、だとディーノは思っている雲雀との逢瀬であることは、周知の事実であった。確かに、別件もあったことにはあったのだが、それは無理やり作った視察という理由であり、主たる目的は雲雀にあったのだ。 そして、その恋人と別れがたく、つい、ずるずると仕事を休める限界まで滞在予定を延ばしてしまった。 結果、ディーノの帰国が予定よりも遅れたことにより、彼の周りの人間、彼の大切な家族のような部下たちに負担を強いることになった。 自分のわがままを通したばかりに。 護衛としてディーノに付いて行った部下たちは勿論、イタリアに残った部下たちにもボスの突然の行動変更は彼らの業務に支障をきたすことは分かっていた。 分かっていたが、それでも離れられなかったのだ。 「まぁ、雲雀はどうか分かんないけどな」 別れ際の執着心を伺わせないあっさりとした態度を思い出し、ディーノは苦笑した。 それでも、二人きりの時には雲雀もそれなりの雰囲気を持っているのだから、おそらく、悲観的にみたとしても嫌がられているということはないのだと思うのだが。 楽しかった分、別れがつらいのも仕方のないことで、それで落ちこむ気はないのだが。 それにしても、今回は存外の休暇だったこともあり、自分自身に甘くなりすぎてしまった。 そして…。 と、思考がループし始めた時。 トントン、と扉の叩かれる音がして、コーヒーを手にしたロマーリオが絶妙のタイミングで部屋へと入ってきた。 「ボス、仕事は終わったか」 「さすが、いいタイミングだな」 気を取り直したようにディーノはロマーリオに笑いかけながら、差し出されたコーヒーカップへと手を伸ばす。 芳醇な豆の香が鼻腔をくすぐる。 高圧の蒸気で抽出された深みのある香りを楽しむように、目を閉じる。 カップに口付け、ゆっくりと飲んでいく。 「ああ、生き返る」 飲み途中のカップをテーブルに置く。 「老人みたいなこと言うなよ」 ロマーリオが笑い、綺麗に分類され積まれて入る書類の山を見、「それにしても、ずいぶん書類が溜まったもんだな」と続けた。その声音は、溜った書類を見事に帰国後一日で裁き終えたことに対する労いと共に、少しでも油断すると仕事がどんどんと増えていってしまうディーノの経営手腕の貪欲さに呆れてもいるようだった。 「ロマーリオ、今回は俺の我侭で迷惑をかけてすまなかった」 ディーノが率直に謝る。 突然の謝罪に面食らい、ロマーリオは目を見開いたが、すぐにディーノへ笑顔を向けた。 「ま、最近ボスは働きすぎだったし。息抜きも必要なんじゃないか」 己の行動をどこかで悔いているようなディーノに、ロマーリオがフォローをいれる。 「それに、俺たちよりもボスのほうが大変だろ」 「にしても、今回は予定を超過しすぎた…」 ディーノがため息をつく。 そんなディーノをロマーリオは真面目な顔で凝視し、 「なぁ、ボス」 言い難そうに口を開く。 「何だ?」 ディーノは、彼の忠実な部下に続きを促す。 「こっちに、キョウヤを連れてきたらどうだ」 ロマーリオの言葉に、ディーノの表情が凍りつく。 思考が麻痺してしまい、ロマーリオが何を言っているのか本当に理解できなかった。 「はっ…何言ってんだよ」 そして、機能を回復した声帯から出た言葉は思いの他荒く、強く響き、口にしたディーノ自身が驚いていた。 「そうか」 ロマーリオが、ディーノの反応に肩をすくめる。 二人の間に、奇妙な沈黙が落ちる。 それを破ったのは、「悪い」というディーノの再びの謝罪だった。 「悪い、でもそれはできないんだ」 ディーノは姿勢を正し、机の上で手を組んだ。 そして、彼のことを誰よりも考えてくれている親代わりのような部下に向かって真っ直ぐな瞳を向けて言う。 「恭弥はボンゴレの人間だ」 自分で口にして、そうなのだ、とディーノ自身が深く納得した。 彼はボンゴレに属する、それに忠誠を誓うべき人間なのだ。 違う組織のボスであるディーノの一存で、彼の行動を決めることはできないし、してはいけないことなのだ。 それに、雲雀はまだ子供だった。 大人びていて、実際、規定内の大人など確実に凌駕する程の権力とそれを執行するだけの頭脳と人が従う魅力を兼ねそろえている。 それでも、それはまだ彼の生まれ育ったあの町の中に限られた力だった。 例え彼が自分の側に居たとしても、そのことによって受ける不利益などものともせずに、むしろ己の糧として大きくなっていくだろうことは容易に予想できる。 だが、それは同時に彼の貴重な時間、子供でいられる時間を奪うことにも繋がるのではないだろうか。 自分が強制されたように、彼の時を奪ってしまう。 そのことが恐かった。 「それに、あいつはあの町を離れたいとは思わないだろうし」 彼はあの町を離れることはないのだ、とディーノの一部が得心し確信していた。 例えば、一時離れることがあっても、渡り鳥が故郷に帰るように、彼もまた故郷に帰るのだと。 自分が母国やキャバッローネという組織に持っているものと同じ、単純な愛着を雲雀があの生まれ育った街に持っていることを、ディーノは完全に理解していた。 だから、強制的にこっちに連れてくることはできないのだ、と。 「そうだな」 ディーノの言葉に、ロマーリオは納得し、 「ま、俺たちもあの国は好きだから、時々行くのは悪くないしな」 やんわりと自分たちのボスの行動を肯定した。 「ボス、仕事終わったんだから、いい加減、寝ろよ」 そう言い、部屋から出て行こうとする。 その後姿に、ディーノが声をかけた。 「それに、遠距離恋愛ってロマンチックだろ」 振り返ったロマーリオと目が合うと、ニヤリと微笑を浮かべる。 「確かに。最高のロマンスだな」 彼の忠実な部下は苦笑のような微笑を浮かべ、扉の向こうへと消えていった。 遠く離れている距離的なものは、彼らの精神的な関係にとって問題ではないと思う。 それでも、離れれば離れるほど、彼を思う心が強くなるような、そんな気持ちになるのは、恋という罠にかかったものの愚かしさなのだろうか。 彼も同じ気持ちであってくれたらいいのに、と考えることも甘い痛みを伴う甘美な誘惑で…。 「恭弥」 ぽつりと一言。 遠く離れたかの国にいる、彼の名を呼ぶ。 ディーノは微笑を浮かべると、机に突っ伏し急速に襲ってきた睡魔に身をゆだねた。 |