The Book




ある時、彼がこんな話をしてくれた。



「なぁ、恭弥。知ってるか?」

応接室のソファ、そこが彼の定位置になっていることを雲雀は認めざるをえなかった、にゆったりと座り、ディーノが言った。
ディーノの突然とも思える発言に慣れ始めていた雲雀は、見ていた書類から顔をあげ、表情の窺い知れない彼の顔を一瞥しただけで、また書類へと視線を戻す。
そして、そんな雲雀の行動にやはり慣れてしいるディーノは、くすりと笑い、話を続けた。

「運命の書…」

意味ありげに余韻を残し、沈黙を落としたディーノに誘われるように、雲雀が再び顔をあげ、眉を微かにしかる。そして、「うんめいのしょ…」と口の中だけでディーノの言葉を反芻した。

「そう。運命の書だ。」

どこか嘲るように、ディーノが笑う。
雲雀は、ディーノの言葉よりも、その嘲りの含まれた笑いに興味を持った。

「それは、何?」

淡々と、質問を口にする。
うんめいのしょ、とやらの内容には興味はないが、ディーノの思考を負の方向へと導いているもの、ひいては彼の心自体に、雲雀の心が動いた。
無論、このような自分の気持ちには雲雀は無頓着であるので、後から考えればそうだったのかもしれない、という程度の行動の裏にある感情なのだが。

「運命の書ってのは、人の一生で起こる全てのこと、生まれてから死ぬまで、何を食べて、誰を殺して、どこで転ぶか、そんな全てが書かれている書物のことだ」
「全てのこと」
「俺のことも、お前のことも。もしかしたら、人以外についても書いてあるかも知れないぜ」

そう言って、ディーノは再び嘲笑した。

「ふぅん。それで、うんめいのしょを信じてるの」

彼の笑みの意味を知りたくて、何気なく発した言葉だった。
しかし、雲雀の言葉を聞いたディーノは、深い、とても深い哀しみのような、強い、とても強い憤懣のような、複雑な感情が、いつもならば明るく輝く鳶色の瞳に顕れていた。
雲雀は、彼にそんな目をさせてしまった自分にこれまた複雑な気持ちを持ったのだ。後から考えてみれば、あれは、後悔、ともいえる感情だったのだ、と理解できる。だが、単純な、もしかしたら野の獣よりも単純な感情しか持っていなかった当時はあのもやもやとした感情が一体何であるのか、全く分からず、もし自分の抱いた感情が“後悔”というものである、若しくはそれに酷似している親戚のような感情であると分っても、そんなことは有り得ない、と笑い飛ばし根拠のない精神力で捻じ伏せてしまっただろう。だから、あの時に雲雀の抱いた感情の正体が分らなかったことは、曖昧な不明な状態を不明のまま持っているということは、とてもよいことだったのだとも思う。
ディーノはそんな雲雀の、後悔、に近い感情を読み取ったのか、いつもと変わらない優しげな笑みを浮かべた。

「まぁ、一応。信じてるっちゃ信じてるけど…」
「信じてるけど?」

軽く息をつきながら、ディーノはすっとソファから立ち上がり、雲雀へと歩み寄った。
正面から雲雀を見据え、両の手を伸ばす。

「今、俺がここにいるのも」

ディーノの指先が雲雀の頬に触れ、両の掌で包み込んだ。

「こうやって恭弥に触れるのも」

雲雀の頬を包み込んだ掌を、離す。

「何もしないで、手を離すのも。全てその書物には書いてあるんだ」

そう言い、やはりどこか哀しそうに笑うディーノに、雲雀の心はまたもや掻き乱される。
自分の感情から逃れるように、雲雀はそっぽを向いた。

「くだらない」
「…。ああ、そうだな。くだらないことだよな」

ディーノが長い足を片方かけるようにして机に横座りになる。机に置かれた書類がディーノに押され、僅かに移動する。横目でそれを確認し、雲雀は眉を顰めた。
難しい顔をしたままそっぽを向いた雲雀の顔をへと、もう一度手を伸ばし、ディーノは艶やかな黒髪を撫でる。

「俺が恭弥に会ったのも」

最前よりもゆっくりと。
雲雀の髪を撫でた手が、こめかみから頬に至る丸みを帯びた顔の稜線に沿って動く。

「恭弥をこんなに愛おしいと思うのも」

雲雀の肩がぴくりと揺れる。
ディーノは雲雀の尖った顎を支えるようにして、自分の方へと向かせる。
雲雀の黒い瞳も、微かに揺らめく。

「全部決められたことなんて」

ゆっくりと話すディーノの顔が同じくらいゆっくりと雲雀へと近づく。
段々と雲雀の焦点が合わなくなってきて、視界が滲んでくる。

「そんなわけないよな。俺は自分の意思でお前を…」

そして、ゆっくりと、唇を合わせた。



二人の唇が、離れ、適正な距離にディーノの顔が戻る。
ディーノはふわりと微笑み、その笑顔を見て雲雀の心のもやもやは霧消したようだが、逆に霧消させる程の影響力を持っていることを認めたくないような、別の尖った気持ちがわいてきて、雲雀はディーノを軽く睨みつけたのだ。

「て、恭弥。なに怒ってるの?」
「別に…怒ってない」
「怒ってるだろ」

くすりと笑うディーノの手を雲雀は振り払う。

「怒ってない」
「いいや、怒ってるね」

くすくすとからかう様な口調になるディーノに比例するように、雲雀の眉間の皺が深くなっていく。

「恭弥、こっち向いて」

ディーノの言葉に反するように、雲雀はまたもやそっぽを向いた。

「…結局、うんめいのしょとやらを信じているの、信じてないの」

そっぽを向いたまま成された詰問めいた質問は、どうしても怒っているようにしか聞こえなかった。
軽く、微かに微笑み、ディーノは顔の表情を引き締める。

「信じている…んだろうな。だけど」

ディーノは言葉を切り、何事かを考えるように沈黙した。
そんなディーノに雲雀は苛立ちを覚えて、「だけど」と強い調子で先を促した。

「だけど、運命ってのは自分でどうにかできるもんだとも思うんだよな」

優しく哀しく遣る瀬無く、綺麗で透明な暖かな。
人間のあらゆる感情が混ざったような笑みをディーノは浮かべ、曖昧な答え方にやはり苛立ちを覚えたものなのだが、その美しいともいえる笑顔を雲雀は忘れることはなかった。





不意に、彼の話したこのエピソードを思い出したのは、ただの感傷ではないのだろう。
壊滅といってもいいほどの危機に陥っている彼の組織と、崩壊の危機に瀕している自分の属している組織。
いつの間にか崩れてしまった、日常。
自分を取り巻いていた世界は、壊れ始めてしまい、それを救う術を探して、あがくように日々を生きている。

これが全て運命の書に書かれている事象だというのなら、その終焉はハッピーエンドなのか、それとも、何も残らない、無なのだろうか。


運命という、甘美な罠に陥らないように、流れに身を任せたまま自分を見失わないように、そんな自戒を込めた言葉だったのかもしれない。
それとも、本当は運命なんて信じてなくて、信じることができるほど、緩やかな人生を送ってこなくて、しかし、どこかで人外の何かに縋りたいと思う時が、彼にもあったのかもしれない。
相反する感情の間で、彼は生き、今も生きている。

彼の言葉の真意は、今でも明確には分らない。
というよりも、雲雀には、実感として感じられないのだ。
だが、運命の書にこれから起こること全てが記されているのならば、それを消し去り、思うがままに進めばいい。

多分、あの時彼は、そう言いたかったのだろう。
予め決められた未来を漫然と生きるより、自分で未来を切り開け、と。


雲雀は、彼の他は誰もいない広い部屋でに正座をし、笑う。
こんな気障なことを考えていたのだろうか。
今度、会ったら、ディーノに確かめてみなくてはいけない、と。


会うことができるならば。

会うことを望むのならば。


暗い部屋のせいなのだろうか、少しばかり感傷的になっているな、と雲雀は苦笑し、もう一度背筋を伸ばす。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

そして、彼の戦いへと赴いた。


彼の、運命という名の戦いへと。