THE CONTINENTAL PERFUME




シャワーを浴びた後、鏡に映る自分を見る時が雲雀は一番嫌いだ。
薄絹で覆われているような曖昧な記憶が、現実だったという証を見つけてしまうから。



寝起きは、悪い方ではない。
だが、よい方でもなかった。
新鮮な空気を吸いこもうとした鼻腔を濃密な花の香りはくすぐった。
うっすらと瞼を開けると、飛び込んでくる金髪。
ああ、そうだった、と雲雀はもう一度目を閉じて、じっとする。
それでも、半覚醒の頭がもう一度眠りに引き込まれることはなく、少しだけぼうっとしている頭で、ベッドから降り、シャワーを浴びるべくバスへと向かった。
彼の傍らで寝ている、ディーノの痕跡を消すために。

ぬる目の湯が頭から容赦なく叩きつけてくる。
肌を刺すような水圧で、体の細胞に、雲雀の意識に、纏わりついていた夜の精気がなくなっていく。
心地よい。
微かな気だるさの残る体に浴びるシャワーは、南国の住人が待ちわびているスコールのように心地よかった。
ずぶ濡れになり、備え付けの香りのよい石鹸で無造作に頭と体を洗う。
すると、体も心もリセットされ、体のけだるさの理由さえも忘れてしまうことができるような気になる。
泡を落とすために、少しだけ温度を上げたシャワーを再びかぶると、そこで、雲雀の意識は完璧に、並盛中学校風紀委員長としての雲雀恭弥になる、はずだ。

濡れている髪にタオルをかけ、鏡に映る自分を見ては眉を顰める。
雲雀の体、鎖骨の下辺りに赤い痕、ほんの数時間前にディーノによって付けられた痕が浮き出ているからだ。
完璧に消し去ったはずの夜の名残りが厭わしい。
自分の白い肌に顕れている赤い浮腫のような箇所を雲雀は指先で触れる。
痛みもなにもない。
肉体に浮き出ているだけの、赤い、痕。
雲雀が腕の力を抜いた。
重力に従い、腕はすとんと体の横に垂れ下がる。
もう一度、鏡の中の自分を見つめる。
この痕さえなければ、昨夜のことは全部夢だった、と、何もなかったのだ、と、思うことができるのに。
確かに、体には気だるさがある。
しかし、明確な痛みは、ないのだ。
彼は、雲雀に何らかのダメージを残すことを極力避けているようだった。
それが、彼なりの配慮なのだと思うこともある。
自分の欲望を満たすためだけに、雲雀を乱暴に扱うことは決してしなかった。
その代わり、なのだろうか?
雲雀の体に刻印を残す。
夜の出来事が夢ではなかった印に。
たった、一箇所だけ。
彼の印を残すのだ。
数日で消えてしまう、儚い刻印。
ただ、この瞬間。
シャワーを浴びて、物質的な証拠を洗い流した後にのみ、雲雀に示すためだけに顕れる、愛し合ったことの確かな証拠。

雲雀はため息ともつかぬ息を吐き、頭にかけたままにしてあったバスタオルで髪を無造作に拭く。
手触りの良いタオルは、雲雀の髪から水分を適度に吸収していく。
しばらくの間、無心に髪を拭いていた。
「恭弥、冷えるぞ」
いつの間にか、ディーノが雲雀の背後へと忍び込んでいた。
はっとした雲雀が振り返る間もなく、ディーノが後ろから雲雀を抱きすくめる。
ディーノの体が、その未だ夜の精気を纏っているような匂いが、雲雀の体を包み込む。
一瞬体が強張るのが、自分でも分かる。
鏡の中に映るディーノと、雲雀の目が合った。
彼の瞳は、どこか哀しげに揺れ、何故だか雲雀の心を乱していく。
その哀しげな色も一瞬で消え失せ、ディーノは雲雀を安堵させるように微笑むのだ。
その笑みを見ると、雲雀は何故だか安心して、強い雲雀に戻ることができる。
だから、「離して」と、ディーノに低い声で言うことも可能になるのだ。
しかし、雲雀の声を無視し、ディーノは更に強く雲雀を抱きしめ、タオルが半分落ちかけている髪へと顔を埋める。
そうなってしまうと、雲雀は自分でも信じられないことなのだが、じっとして、ディーノの吐息を、体温を、体の動きを感じることしかできなくなってしまう。
鏡に映る自分たちの姿から雲雀は目を伏せた。
このイタリア人は、確かに細身だし、あまり大きさを感じさせる体つきはしていない。
だが、体の厚みや印肉の付き方、手足の長さなど、アジア人とは違う、ヨーロッパ人の体を持ってることを雲雀は知っている。
力では適わない。
現に自分は、抱きすくめられただけで、動けなくなってしまっているではないか。
動けない理由がただ力の強さに由来するだけなのか、それとも他の理由があるのか、雲雀は考えたくなく、考えないことにしていた。

「恭弥」

くぐもった声が雲雀の肌に直接触れる。
瞬間走る、悪寒のような震え。
しかし、それが悪寒でないことを雲雀は分かっていて、そんな感覚をもたらす彼に、そんな感覚を知ってしまった自分に腹が立つのだ。

「離して」

最前よりも、強い口調で腕を動かす。
だが、ディーノは雲雀を放さない。

「恭弥」

もう一度名前を呼ばれる。
その声音が、ひどく甘いものとして雲雀の耳に届く。
ディーノが、雲雀の首筋へと更に唇を押しつける。
清潔な湯の匂いに、ディーノの、香りが混じっている。
せっかく。
せっかく、あとかたもなく消した匂いなのに。
彼の付けた赤い印以外、何もなかったことに、できるはずだったのに。
しかし、ディーノの香りは雲雀を包み込み、それだけではなく、夜の間に注ぎ込まれた彼の香りが雲雀自身からも香ってくるかのような、そんな錯覚さえ起こしそうになる。

「…離して」

振り絞るような声で、もう一度言ってみた。
ディーノは雲雀の首筋に口づけしたまま、雲雀の胸に咲く赤い刻印を繊細な指先でなぞる。
自分のものとは違う、他人の感触に雲雀の肌がざわめく。

「痕、付いちまったな」

そう、嘯く掠れた声が、雲雀の肌を震わす。
首筋に当たる吐息の熱さと、背中で感じるディーノの体温。
触れられた指から伝わってくる、心をさざめかせる感覚。

「あなたが付けたんでしょ」

雲雀の非難の言葉に、ディーノは「そうだな」と苦笑した。
そして、掌全体で肌に触れ、ゆっくりと這わせる。

「もっと、もっと、恭弥に俺を刻みたい」

ディーノが雲雀の脛骨を唇でまさぐり、吸い上げるようにキスをした。

「やめっ」

雲雀の躯幹がびくりとし、体を折り曲げるようにして洗面台へと手をついた。
鏡の中には、前屈みになった自分と、その首筋に口づけをするディーノの姿が映っている。
その煽情的な姿に雲雀の体温が一気に上昇した。
雲雀は頭を垂れ、体を駆け巡る親しい感覚に抗おうと…。

「恭弥…愛してる」

聞き取れないほど、微かに震えるディーノの声が、そんな雲雀の抵抗を虚無へと還す。
雲雀の膝から力が抜け、ディーノに抱きすくめられたまま、へなへなと崩れ落ちそうになる。

「恭弥…」
「うるさい」

体の力が抜け、ディーノだけが唯一の寄る辺にも関わらず、雲雀の台詞だけは強く、だが、弱さの交る声音が彼の意思を裏切っていた。

「恭弥…あっちへ戻ろう」

ディーノがふわりと笑い、顔を見なくてもどんな表情をしているのかは雲雀にはよく分かっていた、雲雀を支え、立ちあがらせる。

「学校…」
「今日は土曜日だ」

例え土曜でも、雲雀は学校へ行くことが多かったが、それは雲雀がそうしたいからしているだけで、強制力もないものなのだ。
ディーノが雲雀を抱え込み、一緒に歩き出させる。
バスルームから出ると、部屋には甘い香りが漂っていた。
甘い、甘い、香り。

「百合の…匂い」

雲雀がディーノの顔を見つめた。
ディーノも雲雀の顔を見つめる。
どちらからともなく唇を寄せ、離れる。
離れては、触れる。
触れては、離れる。
それは次第に深いものへと変わっていった。



百合の甘やかな匂いが、雲雀を包み込むディーノの匂いが、雲雀を狂わせていく。

彼という香りに、溺れていく。





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