◆ それはまだ、恋を知らなかった頃の話 ◆ 「お疲れさん、ボス」 ロマーリオがねぎらいの言葉と共に小さなカップを差し出した。 「ボス、ね」 苦笑したディーノの鼻孔を、とろりとした濃いエスプレッソの香りがくすぐった。 執務机の書類から顔をあげたディーノが、差し出されたカップを受取り口をつける。 香りに違わぬ濃いエスプレッソが疲弊していた体と心に浸みこんでいった。 「…まだ、慣れないのか?」 「ああ」 ディーノがキャバッローネを継いだのは、まだほんの子供の頃のことだった。 しかし、部下たちから“ボス”と呼ばれるようになったのはここ数カ月のことだったのだ。 先代のボスであった父親の死と共に、キャバッローネのボスという地位は自動的に後継者であるディーノのものとなった。それ故、利害関係のある者や無理やり利を求める者が崩壊寸前のキャバッローネに群がり、食いものにしたのだ。元々多くの負債を抱えていたキャバッローネは、微かに残っていた財産さえも奪われ、ディーノは名目だけの後継者になり果てたのだった。それでも、ディーノが継いだ時点で組織としての体をなさなくなり、いつ無くなってもおかしくなかったキャバッローネが、例え名前だけであろうとも残ったのは、ボンゴレファミリー9代目ドン・ボンゴレのおかげだった。 また、ディーノを学校に行かせ、卒業後もリボーンという家庭教師をつけたのもドン・ボンゴレだったのだ。そして、リボーンから独り立ちしていいという許可を受けたディーノの後見になってくれてもいた。 そして、部下たちもリボーンの教育が終わり、ドン・ボンゴレの支持を得たディーノをキャバッローネのボスとして迎え、それまでの“坊ちゃん”から“ボス”と呼称を変えたのだった。 ボスとなったディーノが最初に着手したのが、負債の整理だった。非合法な方法でならば、かなり早い段階での返済が可能だろう。だが、後見になっているボンゴレも、そしてディーノ自身も、武器麻薬の密輸、売春の斡旋などの非合法な手段を好まなかった。非合法な世界にはそれなりの縄張りがあり、その縄張りに割って入るほどの力が、この場合は純粋な戦闘力が歴史は古いが組織としての機能が低下していたキャバッローネにはほとんどなかったのだ。 キャバッローネ再興のためのビジネスには、合法的な手段を選ぶことにした。このビジネスに関しては最初の資金繰り以外、ボンゴレの支援を受けることはなかったが、それでもディーノのキャバッローネの背後に巨大組織であるボンゴレが居る、という事実は大きく、政治活動経済活動のあらゆる分野で癒着が起こっているこの国において、有利にビジネスを進めるうえでの重要な役割をも担ってくれていた。 犯罪性が皆無とはいえないまでも、ほぼ法的な金儲けの手段を確立するための基礎ができつつあったのだ。 先は長いとはいえ、やっと、ここ数カ月の苦労がそろそろ最初の実を結ぼうかという所まできていた。 「やっと、ここまできた…」 ディーノの独り言のような呟きに、ソファに座ったロマーリオが微かに頷く。 「そうだな」 二人は静かにエスプレッソを啜った。 「次は…」 ロマーリオがディーノを見てにやりとする。 その笑顔を怪訝そうな顔でディーノが見返す。 「何だ?」 「次は、可愛い彼女だな」 一瞬の間を置いて、ディーノが声を立てて笑った。 「笑うとこじゃねぇだろ…」 ロマーリオは軽くため息をつきながら、カップへ口付ける。 「…いや、わりぃ」 悪いと謝りながらも、ディーノは目に涙を浮かべくすくすと笑っている。 笑いの治まらないディーノを憮然としながら、それでも苦笑してロマーリオが穏やかに見つめた。彼らのボスが、無邪気に笑っている、それだけのことが嬉しかったのだ。 「ロマーリオ」 ディーノは笑いを引っ込めると、目付役でもある年長の部下に向かって、真剣な眼差しを向けた。 「俺は…多分、恋はしない」 決意を秘めた、というよりも、どこか諦観を漂わす声音。 ディーノが眉をあげ、ロマーリオに微笑んだ。 その微笑みは美しく、組織に属する男たちを、その家族を、双肩に担っている者の悲壮さと強い意志とが感じられた。 「…ボス」 「ま、俺のことより、まずはロマーリオの嫁さん探しだな」 ぽん、とロマーリオの肩を叩きディーノがいたずらっ子の顔になる。 「部下のことを考えるのがいいボスだ、ってドン・ボンゴレも言ってたしな」 どこか照れたような、はぐらかしに、ロマーリオは「ボスの幸せを考えるのが部下の仕事なんだがな」とやり返した。 ゆっくりとした、二人の笑い声が部屋に響いた。 ディーノはまだ知らない。 恋、とは己の意思でするものではなく、突然、落ちるものだ、ということを。 これは、極東の地にいる黒髪の少年と出会う前の話。 |