時の魔法




5月5日 0時30分。
並盛の時計はそう告げていた。


雲雀の携帯電話が鳴った。
愛する並盛中学を卒業して尚、彼の着信音は例の校歌のままである。
繊細な指が通話のキーを打つ。
「恭弥か?」
違う、と答えたら電話の向こうの相手はどんな顔をするだろう、と愚にもつかないことを雲雀は考えながら、次の言葉を待った。
「もしもし、恭弥?」
少しだけ不安げな声音に、不承不承雲雀は返事をする。
「何?」
「ああ、恭弥だ。」
ほっとしたようなディーノの声に少しだけ雲雀はイラついた。
「だから、用件は、何?」
「――お誕生日、おめでとう」
少し間をおいて発せられた言葉に、雲雀は微かに眉を顰める。
誕生日。
そういえば、今日は自分の誕生日だった。
忘れようにも忘れらない大型連休にあるこの日は、しかし、雲雀にとって別段なんの感慨もない日であったのだ。
「そう。……ありがとう」
一応、そう付け加えておく。
「ごめんな、恭弥。本当は、お前に会いに行きたかったんだけど、やっぱり、どうしても会議から抜けれなくて」
不意にディーノの声が途切れ、小さな声で“D'accordo.”と聞こえた。
「悪い。会議に戻らなくちゃならない」
「早く戻りなよ」
電話の向こうでディーノが軽く苦笑したのが雲雀に伝わってきた。
「切るよ」
「恭弥。――愛してる」
ディーノの言葉を聞くか聞かないかのうちに、雲雀は通話停止のボタンを押していた。
そして、通信の切れた携帯をポケットに仕舞いこんだ。



雲雀にとって、誕生日はただの記号にすぎなかった。
365日の他の日と同じように、ただ単に便宜上作られた暦の中の一日というだけのことである。たまたまその日に生まれたからといって、特別な何かを感じなくてはならないのだろうか。
雲雀が冷めているから、こんなことを思うわけではなく、彼の意識の方向性が、自己愛にないというだけの証左にすぎない。雲雀は自分自身に興味がなかった。否、もっと正確に言うならば、彼の生まれつき高いスペックが自己研鑽の努力や自己実現の努力を必要としないが故の無頓着さであるのだ。

たかが誕生日ごときに……。

部屋のソファに腰かけた雲雀は、外の景色を眺める。
無為に過ごす時間を嫌悪していたが、次の予定までに少しだけ休息が必要でもある。
雲雀は町並みを漠然と見ながら、目を細めた。

毎年毎年、ディーノは雲雀の誕生日を祝いに来ていたのだ。
元々、一体いつ仕事をしているのかと思うくらい日本へと来ているディーノであったが、どんなに忙しくとも必ず、雲雀に会いに来ていた。
それ故、雲雀にとって、5月5日は、自分の誕生日というよりも、あの男が日本に来る日、として脳裡にインプットされている位なのだ。
今回も、数日前に連絡があった。
何としてでも5月5日には駆けつけるつもりであるが、もしかしたら、会議がはいるかもしれない、と。
雲雀は、ただ、仕事でしょ、と言った。
ディーノは、直前まで会議に出ない方向で検討する旨を雲雀に伝えたが、雲雀は雲雀で、僕も暇じゃないから並盛にいないかもしれないしね、と返したのだった。

数日前のやり取りを思い出していたポケットに仕舞いこんだ携帯電話が鳴る。
「僕だけど。……ああ、今から下に行くよ」
テーブルの上に置かれているお茶を飲み、雲雀は立ち上がった。





結局、会議は夜を徹して行われ、ディーノの体が解放されたのは、翌日の夜になってからだった。
途中、何度か休息を挟んだとはいえ、20時間にも及ぶ会議はかなりの疲労をもたらしている。
車のドアを閉める。
シートに靠れると、ディーノは深く息をついた。
「ボス、お疲れさん」
「ああ」
ロマーリオが静かに車を走らせる。
「疲れてるな」
「ああ、結局、平行線のまま……結論がでなかったからな」
うんざりする程のエゴの塊が、己の利益のためだけに意見を述べている会議なのだ。妥協案を探ろう、というよりは、自分の主張を通そう、という輩ばかりで、会議の間中ディーノは腹立たしさで一杯であったのだ。
自分が“いい人”であるとは思わない。
こんな商売をしている以上、ある程度以上の“悪”は必要なのだ。
しかし、エゴを剥き出しにするだけの争いは、もはやビジネスではない。
ディーノは軽く目を閉じる。
いや、違う。
確かに、自己利益のことしか頭にない連中に腹立たしさは募るばかりだったが、この苛つきは、他にも理由があるのだ。
一年で一番といってもよい位、大切な日が台無しになったから。
だから、自分はとてつもない怒りと、そして虚脱感を抱いているのだろう。
先ほどは、といっても既に20時間も経っているのだが、雲雀と全く話ができなかった。
ディーノはスーツを探り、携帯電話を取り出した。
短縮ダイヤルを押す。
時差の関係で、日本は真夜中であることは承知していたが、雲雀がでないならばそれでも仕方がない、という気持ちで、コール音を聞いていた。
寝ているのかもしれない、と苦笑しつつ、電話を切ろうとした時、相手が出た。
「恭弥?」
「……何」
不機嫌そうな声が聞こえてくる。
「悪い。寝てるとこを起こしたか……」
「別に、起きてたから」
「そうか」
ほっとしつつ、ディーノは続けた。
「昨日はちゃんとお祝が言えなかったから。お誕生日おめでとう、恭弥」
愛している、と小さな声で続けた。
「……そう」
微かな躊躇いの後、雲雀がそう言った。
電子化された声からはその表情を窺うことは難しかったが、どことなく喜んでいるように聞こえたのはディーノの気のせいであったのだろうか。
「一日遅れて悪かったな」
そう、付け加えた。

「……」
「どうしたんだ?」
いつもなら用事がないならば即電話を切ってしまう雲雀が、沈黙している。何かを躊躇っているような気配だ。
「時計を見てみなよ」
「時計?」
「そう。あなたの腕に嵌ってる時計」
ディーノは言われたとおりに腕時計に目を落とした。
「何月何日何時何分?」
「……5月5日20時14分だ」
「そう」
微かに、雲雀が笑った。
「恭弥?」
ディーノは不審な面持ちで、電話の向こうの声を待った。
「僕の時計も同じ時刻を指しているんだけど」
雲雀には珍しい、婉曲な物言いに、その言葉の真実を探るのに少しだけ時間がかかり……、ディーノは驚愕した。
「恭弥、今、イタリアにいるのか?」
“Si.”と、雲雀は微笑しながら「並盛にいないかもしれない、って言ったでしょ」と続けた。
「今から行くから。すぐに」
ディーノは雲雀の宿泊先を手早く聞き、ロマーリオへと告げる。




雲雀は、通話の途切れた電話を仕舞う。
ここまで来るのに、一体どれ位かかるだろうか。
日本に行くよりは早いことは確かではあるが。


窓の外を眺め、今、こんな所にいる自分に少しだけ苦笑し、どこかで嬉しく思っている自分を雲雀は発見していたのだった。


050509