『同質の存在についての一つの証明 或いは不可逆性の運命に対するささやかな抵抗』



α−1

時折、荒涼とした大地に自分が立っているのではないかと、そんな思いに駆られることがある。
だが実際には、エアーコンディショニングの効いた、広々として趣味の良い執務室にいるのだ。部屋を快適に保つエアーコンディショニングは、最新型で最小限のエネルギーで最大の効果を得るというエコロジーという欺瞞に満ちてる効果をうたっているものである。
ディーノがこのような思いに駆られるのは、大抵一人で執務室に籠っている時であった。
周りに誰かがいる時には、責任感という心地よい鎖が心を捕り捲き『自分』について考えるような余地はない。
誰かのために。
その『誰か』は『友人』であったり『部下』であったり、その時の状況によって変化するのだが。
独りで部屋に籠って書類を決裁をしている時には、『誰かのため』という意識が希薄になるのだろう。
現在、決裁している書類の種類も問題であった。ファミリーを立ち直すためにはじめた、サイドビジネスについての書類だ。サイドビジネスが軌道に乗り過ぎた結果、ルーティンワークが多くなり、ディーノは上がってくる書類に目を通し、サインをするだけになっていた。時折何等かの意見めいたことを言うこともあったが、ディーノの主な仕事は書類が相手であった。自分がただの機械になった気がするのだろうか。効率よくビジネスを廻していくだけの、機械。
最小限のエネルギーで最大の効果を得ることのできる、まるでこの部屋を快適に保つことだけに専念するエアーコンディショニングのような、機械に。
しかし、そんな感傷に浸る時間はディーノには許されていない。
彼は自らに与えられた仕事を、日々、こなさなくてはならないのだ。
それが、自分に与えられている責務なのだから。
ファミリーのため。
そして。
――彼を残して逝ってしまった者への弔いのためにも……。
エスプレッソのカップへと手を伸ばす。
かなりの量が減っていたそれは、冷たく、苦く。
口に含んだそれは、平素よりも格段苦味を増したような、気がした。
カップを戻す。
苦い液体を喉へと嚥下させる。
微かに覚える、眩暈。
それもすぐに治まり……。
彼の執務室のドアが開いた。
無造作に。
懐かしい様で。





β−1

雲雀はハンドルを軽快に操作しながら、目的地へと向かった。
色々な思い出の詰まっている場所へと。
正確には、自分の周囲の人間が、雲雀にとって想いで深いと思っている場所へ。
軽く息をつく。
他人の評価など、昔から気にしかった。だから、今もあの場所が雲雀にとって何か特別な意味を持っているであろうと思われていても気にならない。
だが、他人の思惑に関係なく、随分と自分はこの土地に慣れたものだ、と思う。それもそのはずである。一年の半分を日本とイタリアを行き来しているのだ。そして、ここ数カ月はずっとイタリアに居続けている。
そうでもしないと、人員の多くを失った組織が立ち行かなかった。自分が動き組織を立て直さなくてはならない、という義務感よりも、組織ががたがたになり、組織としての体を失い、規律が乱れていく様を見るのことが嫌だった。
規律のない組織など、いっそ滅んでしまえと思う程、嫌悪していた。
事実、幼かった頃の、並盛だけで世界が収まっていた自分だったら、組織を徹底的に壊滅させていただろう。
十年の歳月が雲雀を大人にしたのだろうか?
今の雲雀は、組織壊滅の道を選ばず、組織を生き残らせるために東奔西走している。
将に、東奔西走である、
雲雀は表情も変えずに笑う。
もしかしたら、自分をこんな風にしたのは、彼、だったのかもしれない。
認めたくはないが、おそらくこの推測は間違っていないだろう。
雲雀は車を走らせる。
彼、の場所へ。
専属のハウスキーパーが定期的に掃除をしているこの城は、いつでも住めそうな様子であった。
だが、どこか生気がない。
生気がないのも仕方のないことであろう。建物というのは、人が居てこそ機能するのだ。人がいなくなった途端、時を止める。
どんなに美しく掃除をし、快適さに心配ろうと、その美しさを愛で、快適さを貪る者がいなければ、死んでいるのも同然である。動く者のいない建物は、時を止め、再び眠りから醒めるのを待っているのだ。
それが、叶わぬ夢だとしても。
彼の部屋へと続く扉も、恙なく開いた。
重厚さを備えた大きな木の扉が、微かに軋み、ゆっくりと開いていく。
この扉を開ける度に心が痛む。
気のせいかもしれないが、雲雀恭弥の心が僅かに痛み、痛みに耐えかねた部分が、意識することなく、少しだけ、死んでいく。
一瞬、雲雀の世界が回る。
次の瞬間、密閉されていた部屋の空気が、雲雀へと流れてくる。
微かに、雲雀の眉が顰められる。
いつもと、違う。
空気が……。
死者ではない、生者の匂い。
扉を開ける。
驚愕に、目が開かれた。





γ−1

そろそろ約束の時間だ。
ディーノはちらりと腕時計を見る。
一息つき、書類へと署名していたペンを置く。
アナログなことこの上ない、とは思っても、自分の肉筆で紙媒体へとサインすることの重要さも理解していた。
それに、紙へとインクを走らせる感覚も嫌いではない。
おそらく自分はとてもアナログな人間なのだろう。というよりも、アナログがデジタルに変化する直前を愛しているのだ。変化というよりも、変容、であろうか。全く違うロジックに変わる寸前。とても美しい瞬間だと思うのだ。
腕に嵌めた、ツゥールビヨンの美しい歯車の動きもそうなのだろう。
まだまだ、書類は溜まっている。
組織を立て直すためにはじめたサイドビジネスは、サイドというのがおこがましい程の利益をキャバッローネへと、そしてディーノ個人へともたらしていた。もっとも、ディーノ自身は自分の資産になど興味はなく、彼の欲するものが、最低限手に入ればそれで満足する程度であった。所有資産に比べれば、さして贅沢はしていないだろう。だが、一般的に言えば、自分が金持ちと言われる階層に属し、物質的に贅沢な生活をしているのだという自覚はあった。
幸運である。
ビジネスに成功し、組織を立て直せたのも。
そして。
「恭弥に会えたのも」
口に出し笑う。
書類も切りの良い所まで終わった。
時間も丁度良い。
雲雀は、意外と時間に律儀なのだ。まだ学生だった頃から、あれだけ自由に振舞っていたにも関わらず、興味のないことはとことん無視するにも関わらず、妙に律儀で一本気なところがあるのだ。
長い付き合い、十年に及ばんとする付き合いで、ディーノは雲雀の性質をあらかた理解していた。
尤も、未だに読み切れない部分もあり、そこも彼を愛する所以であるのだが。
ディーノはコーヒーカップへと手を伸ばす。
エスプレッソ用のそれは小さく、だが優雅にディーノは繊細な指で摘んだ。
口元まで運び、液体を飲みほす。
冷えても尚、美味しく感じた。
ディーノは眩暈を覚えた。
その時、執務室の重たい扉が開いた……。

――ような気がした。



コツコツと足音が響く石造りの廊下を歩く。
決して急ぐことなく、かといってゆっくり過ぎない、絶妙な速度で。
雲雀は、この屋敷のことはよく知っている。玄関を入ってから、ディーノの執務室へと至る道も、どれ位の速度で歩けば、どれ位の時間で着くのかということも。だから、一定の調子で歩くことができる。
この屋敷のことをよく知っているという事実は、それだけこの屋敷に通っているという事実にも通じ、その理由に想いを馳せた時、雲雀の心は少しだけ忌々しげな感情に支配される。
ディーノと出会ってから十年。
色々な事件があり、その度に彼らは度重なる困難を乗り越えてきた。
雲雀はいつの間にか、新生ボンゴレの守護者として認められるようになり、決して雲雀の望んだ地位ではなかったが、彼の研究のためには都合の良い立場でもあり雲雀は外側からの見解を黙認している、マフィアの世界に確固たる位置を気づいていた。
そして、結局ディーノとも付かず離れず。
「愛してる」、と囁かれ、体を重ねるだけの。
ただ、それだけの関係。
雲雀は苦笑した。
今日は、ボンゴレ十代目の代理としてキャバッローネのボスであるディーノと会いに来たのだ。
私情は、切り離すべきだ。
もとより、私情などないのだが。
そう己へと嘯く。
雲雀の足が止まる。重厚な扉。マフィアの血の歴史の重みを背負った者を守るように、もしくは隔絶するかのように聳えている。
軽く手で触れ、扉を押す。
微かに軋みを立てながら、淀みなく開いていく。
部屋の中に、ディーノがいる。
そう、認識した瞬間。
雲雀の世界が回転した。





α−2

ディーノはコーヒーカップをソーサーへと置く。
時計を見る。
約束の時間だ。
期待を込めて、扉へと目を移した。
十秒。二十秒。三十秒。……。一分。
時間に正確な雲雀といえども、数分の遅刻をしてくることはあるのだ。
久し振りに会えることへの喜びで、気もそぞろになり始めていたディーノは、少し自分を落ち着かせるために深呼吸をした。
今日の雲雀はボンゴレ幹部として仕事の話をしにやってくるのだ。
そのことを忘れることは決してないが、公私の区別をつけずに関係がぐだぐだになってしまうことをディーノは良しとせず、そして雲雀も嫌っているのだ、だがやはり、仕事であろうとも彼に会えるのは嬉しいことである。その気持ちを止めることは誰にもできない。
腕時計を見る。
約束の時間から、5分が過ぎた。
扉が開く様子もない。
ディーノは、書類へと手を伸ばす。手に取ったそれに目を通す。最後まで読み、眉を顰め、もう一度読み返す。
「……ボンゴレ十代目、名代?」
署名欄にある肩書きを口に出す。
おかしい。何なのだ、この肩書は。
自分が綱吉の名代とは、どういうことだろうか。確かに、今、キャバッローネとボンゴレとが業務提携、マフィアの業務提携というのも不思議な話ではあるが、をするための契約を結んでいる最中である。元来が近しい間柄の組織同士である。キャバッローネはボンゴレの配下とまではいかないがボンゴレを盟主と仰ぐ同盟の中の一翼を担っている。ディーノがキャバッローネを立て直す際、先代ボンゴレが援助してくれたことも今回の業務提携の大きな一因となっている。この度の業務提携はボンゴレの弱い部分である表のビジネスをディーノが委託されて行うという趣旨のものであり、ほとんど契約内容は決まっているのだ。その最後の確認の書類を持って、雲雀がディーノを尋ねることになっていたのだが……。
はっとなり、腕時計を見る。
精巧な機械は正確に時を刻んでいた。
十五分の遅刻。
何の連絡もないにしては約束の時間から遅れすぎている。
ディーノは不安に襲われた。
何かあったのだろうか?
机の上にある、電話機へと手を伸ばす。短縮ダイヤルでロマーリオを呼び出した。
「ロマーリオか?」
「ボス、どうしたんだ?」
「今日の恭弥との約束だが……」
電話の向こうで、気配が固まる。ディーノは怪訝そうな表情で、返事を待った。
「……ボス。今から部屋にいってもいいか?」
「ああ」
沈鬱そうなロマーリオの声音に、ディーノの表情も強張った。何か、あったのだろうか。直接話さなければいけないような、何かが。
ディーノは電話機を元に戻し、机の上で指を組む。
トントンと人差し指を動かし、ロマーリオが来るのを待った。



扉が開き、ロマーリオが姿を現した。
雲雀を待っていたはずなのに、腹心の部下と向き合うことになろうとは。その部下の顔が強張っているのはどうしてだろうか。
ディーノは椅子から立ち上がり、部屋の中心に設えられているゲスト用のソファを指し示す。
黙ったまま、ロマーリオが部屋を移動し、ディーノを待った。ディーノが座ってから、一拍遅れ、彼も座った。
「……それで、恭弥はどうしたんだ?」
ディーノが口火を切った。
ロマーリオは黙って、何から話していいのか困惑したような表情で、敬愛するボスの顔を見つめた。
「まさか……。恭弥に何かあったのか?」
自分でそう言いながらも、血の気が引いて行くのが分かる。声だけは平静を保っていたが。
「ボス……」
ロマーリオが口ごもる。彼がこんなにはっきりとしないのは珍しい事だ。ディーノを慮っているのだろう。だが、その態度が余計、ディーノに不安をもたらしてくる。
「ボンゴレ雲の守護者、雲雀恭弥は」

ロマーリオが言葉を切った。
須臾の沈黙が、不吉な予感をディーのに齎す。

――三か月前の爆発事故以来、生死不明です。

死刑宣告のように、ディーノの頭蓋に響きわたった。







β−2

扉を開けた雲雀の目に入ってきたのは、誰もいない部屋であった。
一歩、踏み出す。
気配に注意して、部屋の中へと。
時折、ディーノは子供じみた悪戯をするのだ。雲雀を驚かすのを楽しんでいるような時がある。まったくもって馬鹿らしいとしか言いようがない。
接客用のソファを超え、部屋の奥に設えられている机まで来る。
誰も、いない。
雲雀は机に手をつけ、腰を軽く預け体重をかけた。
ディーノはどこに行ったのであろうか。
大切な書類を持ってきたというのに。
そう、今日雲雀は綱吉から預けられた書類を持ちディーノの元へ訪れた。ボンゴレがキャバッローネと提携する事業についての契約書である。
こんな大切な話の時に、あの男がいないということはありえない。どんなに悪ふざけが過ぎる男であっても、ことビジネスになると非常に優秀な、雲雀ですら認めざるを得ないほどの有能さを発揮し、万事においてきちんとしているのだ。
では、一体ディーノはどこに行った?
雲雀は部屋を見回す。
違和感があった。
ディーノの執務室には違いない。
だが、おかしい。
人がいた気配が何もしないのだ。
例え今少し席を外していたとしても、過去そこに誰かがいたという気配は残るものである。だが、そんな気配さえない。
掃除は行き届いているようで、部屋にはゴミ一つ落ちていない。だが、どこか空虚である。
普通ならば染みついているはずの人間の匂いがまるでしない。一体、どいうことだ。
雲雀は手をついていた机の上を見る。
何もなかった。
机の上には書類一枚、ペン一本、そして連絡用に置かれているはずの電話機さえなかった。
ちょっと眉を顰め、雲雀は早足で部屋をでる。
懐から携帯電話を取り出し、ボタンを押した。
数コールで相手が出る。
「もしもし」
「ディーノがいない」
「え?」
電話の向こうの綱吉は絶句したようだ。それはそうだろう。今日雲雀が赴くことは以前からの約束であるのだ。
「それどころか、人の気配がしない」
「……雲雀さん」
怪訝そうな相手の声。
「今、どこにいるんですか?」
予想もしなかった問いかけに、雲雀は不機嫌になった。
「跳ね馬の屋敷だよ」
そう言って、屋敷のある地名も付け加えた。電話の向こうで、何かを考えているような間があった。
話が上手く通じていないようだ。何故?雲雀がどこに行っているかを綱吉も知っているはずのことなのに、どうして?
「雲雀さん」
落ちつきを取り戻したらしい綱吉は、ボンゴレ十代目の声で雲雀に命令した。
「本部に戻ってきてください」



ボンゴレ本部へと戻った雲雀を迎えたのは、十代目である綱吉と雨の守護者の二人だった。
二人ともとても変な表情をしていた。
何かを憐れむような、悼むような、顔。
「どういうこと?」
綱吉を見、山本を見る。雲雀の憮然とした声音とは裏腹に、二人の表情は暗く沈んでいる。
「雲雀さん……」
綱吉が言いかけ、止める。どういう風に話しはじめればいいのか、困っているのだろうか。口を開いては躊躇している。
「早く、話してくれない」
微かな怒気を含ませながら雲雀が言った。
「……分りました」
一息つき、組んだ指を握りしめる。
「ディーノさんは、死にました」
「――っ」
雲雀は反射的に息を飲んだ。
「……正しくは生死不明。行方が分らなくなっているんです」
ディーノが生死不明の行方知らず。そんな情報は雲雀には入ってきてない。大体、今日雲雀はディーノと商談のアポイントメントをとっていたのだ。その雲雀にディーノの生息について知らされていない、ということ自体があり得ない話だ。
それに……。
「やけに、落ち着いてるね」
そうだ。そうなのだ。二人は決して慌てていない。ただ、傷ましげな表情をし、雲雀を見ている。
知っていた?
今告げられた事を、二人はすでに知っていたというのだろうか。
「あの……」
「跳ね馬のことを、いつから、知っていた?」
「雲雀、大丈夫か? 忘れちまったのか?」
静かな声で問いかける雲雀に対し、山本が労わるような声をかけてくる。雲雀は反射的に山本を睨んだ。
「忘れた? 僕が知っている跳ね馬は、憎らしいほどぴんぴんしていて、今日だって僕と商談の約束をしていたんだ」
一気に捲くし立て、雲雀は口を閉じた。雲雀の知っている跳ね馬についての事実と、彼らの知っているらしい跳ね馬についての事実「その生死について」齟齬があるらしい。
その齟齬がどこから生じているのか分らない。彼らの記憶がおかしいのか。
それとも……。
自分が?
雲雀は軽く頭を振る。黒髪が、さらりと揺れた。
「跳ね馬について、君たちの知っていることを教えて貰おうか」
まるで敵と対峙しているかのような、剣呑な声が響く。
雲雀の視線が綱吉のそれと交差する。
「――分りました」






γ−2

「恭弥」
開いた扉の向こうから現れた人物。
思いもかけない、どんなに想っても二度と会えないと、覚悟を決めさせられた、最愛の者。
ディーノは椅子から立ち上がった。
そのまま勢いよく、彼に向って走りだす。
ボスとしての重々しさも、年齢が培った慎みも、そんなものはどうでもよく。
ただ、彼を抱きしめるために。



不意に抱き締められた衝撃に、雲雀の目が驚きに見開かれる。
「――ディー……ノ?」
抱きすくめられたまま、絞り出された掠れ声。
感じる体温。
耳を擽る吐息。
抱きしめられた、腕の強さ。
雲雀は混乱した。
何故、ディーノがいるのだ?
今、ここに。
「恭弥」
ディーノの声が耳たぶを打つ。
懐かしい、感触に雲雀の体の奥底で何かがどくりと蠢きだす。
心臓を掴まれるような、感覚。
だが、その感覚に流されることなく、雲雀の頭はフル回転し始める
何故、ディーノがいるのか。
いないはずの人間がいる。
そう、彼は死んでしまったのだがら。
否、それは正確ではない。死んだ、というのはかなり確率の高い推測にすぎず、誰も彼の死体を確認した者はいないのだから。正確には、生死不明の行方不明扱いである。生きている、という可能性もあるにはあるが、状況から鑑みて、その可能性はかなり低い、と結論付けられたのだ。雲雀は、そう結論付けた。
では、これは本物であろうか?
答えは、否。
この男は偽物である、と雲雀は断じた。生きているように思えるこの男は、誰かの変装か、それとも幻覚なのだろうか。目的は雲雀を混乱させることだろうか。
では、この部屋にいる意図は一体何であろうか。雲雀の郷愁を誘う作戦なのだろうか。
この、部屋?
雲雀は慌てて視線を巡らす。
やはり、部屋も違う。
そこにある物は雲雀の知っているあの屋敷の調度と寸分違わぬものである。
だが、違う。
ここにあるものは、生きている。
時の流れの中で、しっかりと実存を感じさせる物たちである。彼の知るあの屋敷の物たちは、永遠に凍りついた時間の中、物としての存在意義を失い、ただ、そこに在るだけの物であった。
空気も違う。
ひんやりとした石造りの建物特有の冷たさはあるものの、その雰囲気はどこか暖かい。生きている人間が生活することによって生じる気配の一部のような空気。
では、ここはどこだ?
自分はあの屋敷、かつてキャバッローネのボスが愛していたローマ郊外のあの屋敷、今は誰も住むもののいないあの屋敷へと赴いたのではなかったのか?
そう、確かに雲雀の目に入ってくる部屋の様子は、生気がある、という一点を除いて、あの屋敷そのものである。
「よかった。……恭弥。」
「っ」
己を抱きしめるディーノの力の強さに、微かに体が軋む。懐かしい、男の力強さ。
雲雀の口から洩れた微かな吐息を察し、ディーノが慌てて彼を解放した。それでも、離れるのが難いのか、ディーノの腕は雲雀の背中に廻ったまま。
「――離して」
微かな警戒心を言葉に含ませる。
その尖った物言いに、ディーノがふわりと顔を綻ばせた。
空気が僅かに変わる。
男が生じさせる空気の微妙な変化。雲雀の心が理解した。
この男は、ディーノであると。
だが、まだ頭が納得していない。
雲雀は自分を離さない男を押しやる。
男は苦笑し、その笑みはとても嬉しげであり、だが、どこか寂しげであった。
雲雀の心が痛んだ。



ディーノは驚愕した。
驚き、夢だと思う前に、考える前に体が行動していた。
愛しい片翼へと向かい。
走った。
何も考えられなかった。
ただ、永遠に失ったはずの雲雀が目の前に現れたのだ。たとえ偽物でも、幻でもよかった。偽物に騙されるとしても、幻を見てしまうほど心が病んでいたとしても。
尤も、このような思考が生まれたのは、雲雀を抱きしめ、その華奢な骨や肉付きの薄い細い体、彼の吐息や体温、心臓のとくんとくんという音まで聞こえそうな程研ぎ澄まされた集中させた感覚が告げる雲雀の実存を確かめてからのことであったが。
頭が真っ白になる、という体験をしたのは二度目だった。
一度目は、頭が真っ白になるどころか目の前が真っ暗になり、自分を見失いそうになった。
狂気の深淵へと落ちてしまいそうだった。
寸前でこの世界にディーノを留めたのは、周りで心配そうにディーノの名を呼ぶ部下や、彼以上に蒼い顔をして部下の支えがなくては倒れてしまいそうなボンゴレ嵐の守護者の姿だった。
自分が確りしなくてはならない。
父親が死んだ時、ディーノはまだ子供だった。それ故、彼の双肩にかかってくる責任は部下たちや先代のボンゴレが肩代わりしてくれた。
だが、状況はあの時とは違う。
あの知らせがもたらされた時、あの場所でリーダーシップを取れるのは、状況の確認をし、的確な指示を出せるのは、そしてその責任を望まれていたのは、ディーノだった。
ボンゴレ9代目と守護者半数の死亡、という衝撃的なニュースを抑え、混乱を収束させることができたのはディーノだけであった。ボンゴレと最も親しい盟友であるキャバッローネのボスである、ディーノだけなのだった。
それ故、彼は泣くことも喚くことも、ましてや責任を放棄することなど許されず、例え他者が許したとしても、自分が許しはせず、現状把握、事態の鎮静化に努めたのだ。
そして、決して癒えぬ傷を抱きながらも、何とか日々をこなしてきていた。
だが、今、雲雀が、いる。
目の前に、生きて、いる。
夜寝る時に、朝目が覚めたらベッドの中には雲雀がいて、微かに不機嫌そうな表情でディーノを睨む、そんな思春期の少年のような想像すらしていた。決して叶わぬ願い、あり得ぬ現実と知りながら、とうに縋ることを止めた神にさえ縋りたい気持ちだった。
雲雀を抱きしめた腕へと伝わる、彼の肉体の感触をもっと知りたくて、ディーノは腕へと力を籠めた。
腕の中で雲雀が小さく息を吸う。ぴくりと窮屈そうに動く体。
ディーノは腕に込めた力を緩め、少しだけ雲雀から体を離し、彼の顔を見つめる。
軽く顰められた眉。出会った頃よりも鋭くなったがそれでも尚柔らかな頬。きゅっと切り結ばれている唇。ほっそりとした首筋にかかる、黒い髪。折れてしまいそうな体は、しなやかさを隠し持ち、凶器となって敵へと立ち向かっていくことを、ディーノはよく覚えている。
背中に廻した掌へと伝わる、雲雀の鼓動や微かな筋肉の動き。
生きている。
そして、これは、彼の雲雀恭弥である。
ディーノは、確信した。





−−−−−以下続く。





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