茨ノ森


(一部抜粋)

清潔なシーツを掛けられ、眠っている雲雀を見た時、ディーノは心から安堵した。
無事、ではないか、と。

ディーノに「雲雀倒れる」の報が齎されたのはつい三十分前のことだった。
直接ディーノの携帯電話に連絡があった。彼のプライベートな携帯に連絡がくる、という事実に先ず嫌な予感を覚え、「プロント」と電話に出て、相手の声を聞いた瞬間、予感は確信に変わった。
電話の相手、リボーンは淡々とした声でディーノに告げたのだ。
「――雲雀が病院に運ばれた。」
血の気が引く、という体験は何度かしたことがある。しかし、今回は本当に倒れるのではないか、と思ったほどディーノの体から血潮の熱さが失われていき冷え切った血液さえも見えない傷から虚空へと滴り落ちていくような気がした。電話の向こうの声は落ち着き払っており、雲雀の担ぎ込まれた病院の名前だけを告げ、一方的に通話が切れた。ディーノは言われた病院の名を運転席にいるロマーリオに告げ、急ぎ赴くように短く指示をした。その指示を受けロマーリオが車を急転換させ、来た道を引き返した。
「ボス、今日の予定は全部キャンセルだな?」
と静かなにロマーリオが尋ねた。「ああ」と擦れた声で短く答え、力が抜けた体をどすりとシートへと預けた。眉を寄せ、目を閉じる。閉じた目を隠すかのように拡げた手で額を押さえると軽く顎を上げ、天を仰いだ。
嘘であって欲しい、と願う。
心がざわめく。落ち着かない。
雲雀を心配する焦燥感と微かな、――覚悟。
出会ってから、十年以上が経とうとしている。その年月は即ち、雲雀がディーノと同じ世界に足を踏み込んでいる年月でもある。危険は常に、雲雀の身に付き纏っていたのだ。
こんな暴力の世界に身を置きながらもディーノは、自分の周囲の人間だけは死んだりしない、いつまでも楽しく永続性のある時間を生きていけるという根拠のない確信が、無自覚のままあった。悲痛な願いが転化した願望であり、自分を安堵させるための確信だったのかもしれない。
だがそれは、かくも脆く崩れ落ちてしまう。
ディーノは目を強く瞑り、体の中で逆流する血液とそれを送り出している激しい心臓の動きを落ち着かせようと努力をした。だが、いつまでたっても彼の体は平常に戻ることなく、血液の喪失と熱を生み出す逆流とを繰り返すのだ。
今まで感じたことのない程、長い時間であった。
病院の入口に車が横付けされると、ディーノは車から飛び降り病院内へと入っていった。
エントランスを入ると、素早くディーノを見つけたボンゴレの者が、彼を先導するように横についた。ディーノは先導役の者をも抜かすような勢いで厳しい表情のまま、歩いたのだ。
ディーノは病室へと連れて行かれた。
病室、ということは、雲雀は今何らかの治療を受けている、つまりは、生きている、ということに他ならない。そして、この病室は特別室ではあるものの、集中治療室ではなかった。
命に関わる症状ではない、ということだ。
自らの推論に落ち着きを取り戻したディーノは、ゆっくりと、扉を開ける。
闖入者へと、病室にいた者たちが振り返った。
「ディーノさん……」
ほっとしたような表情で、ベッドの手前に設えられているソファから立ち上がった綱吉が、ディーノを見た。
「雲雀は今、薬で寝てるぞ」
リボーンの言葉にディーノは頷き、部屋の中へと入っていった。ソファ越しに見えるベッドのシーツは青に近い白で、目に痛さを覚える程だ。
そのシーツの中で、雲雀が眠っていた。
身じろぎ一つせず、昏々と眠っている。
ディーノはソファを避け、ベッドのそばへと近寄った。隣には枕もとにある点滴を珍しく真剣な顔で、それは彼の滅多に見ることのできない医者としての顔でもあるのだが、調整しているシャマルがいた。
微かに上下するシーツを確かめ、ディーノは、ほっ、と息をついた。
「よかった……」
思わず呟きが漏れる。
「――そうも言ってられないんだけどな」
だか、ディーノの安堵を打ち破る発言が、点滴を調整し終えたシャマルからなされた。
「何か、問題でも?」
シャマルは、ちらりとディーノを一瞥し「まぁ、座れ」とソファへと促した。
ディーノは綱吉の隣に座り、それに倣い立ち上がってディーノの様子を見ていた綱吉も着席した。ディーノと綱吉の対面にシャマルとリボーンが座っている。
ソファを軋ませ、シャマルは前かがみになると膝の上に肘を置くようにして手を組んだ。
「さて」
口火を切ると、シャマルはそのまま黙りこみ三人を見回すと溜息をついた。
「どう説明すっかなぁ」
ディーノは軽くシャマルを睨むと、シャマルは肩を竦める。そんなシャマルの動作を、質問があったら訊ねるように、と理解したディーノは、直球の質問を投げかけた。
「どうして、雲雀はこうなったんだ?」
意識したよりも、硬質な声。
シャマルが、綱吉の顔を見る。自分はただの医者で、病状については説明するが、それ以外は範疇外だとでもいうように。
そして、ディーノの質問に答えるため、綱吉が口を開く。
「……それは俺から説明します」
ディーノに劣らず、硬質な声だった。
「雲雀さんは、ボンゴレの仕事である研究所を探っていました」
「その研究所は、イケナイ実験をしているってことでマークしてたんだ」
口を挟んだシャマルへ「そうなんです」と頷く。
「……研究所?」
ディーノの問いかけに、綱吉が固有名詞を口にする。その固有名詞に、ディーノは得心がいった。
綱吉の口にした研究所は、とある財団が出資している免疫系研究所として存在しているものである。
表向きは。
だが、資金源を探っていくと、とある財団というのは甚だきな臭い組織であった。幾重にも張られているベールをひも解いていったその先には、ボンゴレやキャバッローネと同業のあるマフィアの名が囁かれている。
そして、そのマフィアは、ディーノらの組織とは違い、常に政治や経済の暗部で活躍をし、暴力で相手を黙らせることに長けている、とされている組織であった。
その組織の資金源の一部が、マネーロンダリング目的で、今、綱吉が口にした研究所の資金になっており、また、研究所での成果がその組織の資金源の一部にもなっていると、噂されていた。
だが、それはあくまでも噂の域を出ず、噂を肯定するだけの確証は誰も持っていなかった。
「ああ、俺も聞いたことがある」
そして、ボンゴレやキャバッローネの属す、いいマフィアのグループは、そのマフィアを潰す機会を伺い、常に監視し、内偵を進めていたのだ。
マフィアに『いい』も『悪い』もないし、現在のマフィアという組織の在りようは、社会正義的には『悪』であるとディーノは考えている。言い訳じみているのかもしれないが、社会正義がその正しさを証明するための必要悪であり、同じ必要『悪』であるのならば、道義的に『いい』組織を目指したいのである。社会の裏側を支える道義たらんとする組織が、ボンゴレであり、キャバッローネである、と自負しているし、例え偽善であったとしても、その自負を守る行動をし続けることを、ディーノは己に課しているのだ。
「実験、ということは、何か掴んだのか?」
「はい。その研究所の消費電力が夜中のある一定時間だけ急激に上昇することを掴みました。そして、その時間に何らかの研究が行われているだろう、ということで、雲雀さんが研究所に行って……探ってくれることになっていたんです」
何でもないように綱吉は口にするが、電力消費量一つを調べるのにも、長い準備期間とボンゴレは勿論それ以外にも多くの人手を要したに違いない。
その手の施設には、通常の表向きの業務で使用するインフラストラクチャ―とは別に、秘密の実験に関わるインフラを備えているのが定石である。裏のインフラに関してはセキュリティも並ではないはずだ。
何重にも隠され秘匿されている電力消費量の推移を探りだした後は、はボンゴレの人員が直接内偵を進めるつもりだったようだ。
だが……。
「恭弥が行くってのは、少し性急じゃないのか?」
綱吉の顔が曇る。
ディーノの口調はどこか非難めいて響いてしまったのだろうか。
綱吉の決定を責めるつもりはなかった。ましてや、雲雀がこのように、病院のベッドに寝ている今となっては、彼の罪悪感を煽るような責任を問うようなまねはしたくない。ディーノが問い詰めなくても、綱吉はとっくに自らの責任の重さを感じ、その重さに潰されないよう一人孤独な戦いをしているのだから。同じ、ボスという立場にあるディーノには、痛い位分かっていた。
だが、どうしても、ディーノの口調は固く、いつもの余裕を失いがちになってしまう。
事、雲雀に関しては、ディーノの余裕はいつでも失われてしまう。
雲雀に関すること以外ならば、どんなに感情が激していたとしても、表面上は余裕のある顔をして平静をもって行動することができるのだが。
「そうだったかもしれません……」
思いつめたような綱吉をリボーンとシャマルが黙って見つめている。まるで、綱吉のボスとしての覚悟、部下を使うことへの覚悟を計っているような二人の眼差しであった。
苦しげに、自分の判断の正誤を確かめるように、ゆっくりと言葉を続けた。
「雲雀さんがあの研究所のパーティーに招待されたので、絶好の機会だと思ったんです」
「恭弥が、言いだしたんだな?」
ディーノの問いかけに、綱吉は躊躇いがちに頷いた。
「――恭弥らしい」
面倒な手順を踏むことを嫌い、ストレートに物事を片づけようとする。
ディーノの知っている雲雀恭弥とは、繊細そうな外見に反して、ひどく好戦的な生き物であるのだ。
雲雀の行動原理を考え、ディーノは苦笑した。
「すみません」
と、綱吉が小さくつけ加えた。
雲雀の行動を止められなかったことへの謝罪か、それとも、自分も雲雀の意見に賛成したことへの謝罪か、ディーノには判断はつかなかった。
その言葉を口にすることによって、自らへの呵責が少しだけ和らいだのだろうか、それとも己の責任を再認識したのだろうか、綱吉の表情が微かに変化した。
何かを決意したかのような、表情の変化は、部下を率いる、そしてその命を左右する命令を下すボスという立場にあるディーノにははっきりと分かった。
おそらく、この青年は、まだ少年であった頃と同じように、誰よりも他者のことを考え、相手の願いや望みに添うように生きているのだろう。
例え相手に請われたことによる決断であったとしても、その責を自分で取りながら……。
組織のボスとして得難い資質である。
部下がボスのために存在するわけではない。
ボスこそが、部下のために存在するのだ。
古来から、このことを取り違えた国や組織は、どんなに隆盛を極めていたとしても、滅んでしまうのが歴史の定石である。
先代のボンゴレ九代目が、綱吉を十代目に選んだのは間違えではなかった。
「それで、恭弥はこうなったのか?」
「はい」
ちらりとベッドへと視線を流す。
薬で眠っているからだろうか。
雲雀は体を、華奢とも言える程細く、肉の薄い体を身じろぎ一つさせず、眠っている。
永遠に眠りつづけたままなのか、と錯覚してしまう程、静かに。
「恭弥は……」
ディーノは視線を戻し、頭の中で話を組み立てる。
「その研究所が非合法に研究してたもののせいで、寝たままってわけか」
「そうだ」



(略)

雲雀の瞳が、深い黒が、ディーノを見つめている。
「僕たちが……恋人だったのは、本当なの?」
泣いてしまいそうな顔を隠して、雲雀が問いかけてくるのだ。
「恭弥……」
はぐらかせない。
こんなに真剣な表情で、危うい表情で問いかけてくる雲雀の言葉を、その答えを、ディーノははぐらかすことができない。
「それは、……どういう、こと?」
雲雀の言葉がディーノを追い詰める。
雲雀を守りたい、と思う気持ちは、本当だ。
だが、雲雀の問いかけに答えなくてはならない。そうしなければ、雲雀が雲雀でなくなってしまうような気がする。
倒れてしまうまで、自らをも追い詰めてしまいながらも、尚、ディーノに問いかけを発する雲雀の強さを、そして、その危うさを、雲雀恭弥という存在そのものを、ディーノは守りたいと思う。
愛おしいと思う。
「恭弥」
ディーノは微笑んだ。
戸惑い、怖れ、喜び、痛み、悲しみ、……。あらゆる感情が溶け合った、透明な微笑み。
その微笑みを見た瞬間、雲雀の気が一瞬遠くなる。
懸命に意識を保とうと、唇をきゅっと結んだ。
ベッドへと横たわっている雲雀に、ディーノの体が被さるようにして、結ばれた唇に、己の唇を触れさせた。
ただ、触れさせた。
少しだけ離れる。
「……」
何も、言えなかった。
ディーノも雲雀も。
二人の間に生じた隙間が、距離が、どちらからともなく埋められていく。
「……っ」
唇が触れた瞬間、雲雀の体が揺れた。
ディーノは雲雀の頬を両掌で包み込む。
雲雀の唇が、そっと開く。ディーノは、その隙間から舌先を差し入れ、雲雀のそれを絡みとった。
「んっ」
漏れる息が、暖かかった。
互いの唾液が混じり合う音がする。
雲雀の手が、ディーノの服を掴み、重力に任せるようにして彼を引き寄せた。
ディーノは雲雀の負担にならないよう、体重をかけないようにして、彼へと覆いかぶさる。
「……はっ」
貪られ、貪り、息が続かなくなったのか、雲雀が瞬間的に呼吸をした。
ディーノはそのまま離れようと、雲雀を解放しようとしたものの、今度は雲雀から唇を寄せ、ディーノにもっとと強請るのだった。
ディーノは再び雲雀の口腔を征服し始める。
懐かしい、感触出会った。
雲雀の肌も、吐息も、味も、全てが。
それ程遠くないはずなのに、遠い過去に置いてきてしまったようなものを、反芻するような、懐かしさであった。
「んっ……っく」
雲雀の息遣いが小刻みになり、荒くなってくる。
今度は、ディーノは雲雀から離れることなく、そのまま、口腔内を蹂躙していくのだった。
唇の隙間から漏れた唾液が、雲雀の頬を伝い、ディーノの掌へと流れ降りていく。それすらも勿体ないというように、ディーノは雲雀のもの全てを絡め取ってしまうが如く、深く唇を合わせる。
雲雀もディーノに応える。
いつの間にか彼らは密着するような体勢になった。ディーノは雲雀へと体ごと覆いかぶさり、雲雀の両腕がディーノの背中に廻っている。
背中に廻ったその手が、きゅっと、ディーノのスーツを掴んでいる。心細げに。
ディーノは丹念に絡ませていた舌先を、なごり惜しそうに雲雀の唇から離した。
「恭弥」
ディーノを下から見つめる雲雀の微かに開かれた唇が、どちらのものとも判別できない体液で濡れている。
「こういうことだ」
「こういう、……こと?」
雲雀が、途切れ途切れに問うた。
「ああ」
ディーノが答える。
「――これだけ?」
「えっ」
意表をつく雲雀の言葉に、ディーノの瞳が見開かれた。
そんなディーノの驚きの表情に雲雀は微かに頬を上気させ、視線を外した。
そして、ディーノの背中に廻しスーツを握っている手に力を込めた。
「これで、全部?」
「どう、……思う?」
駆け引きめいた言葉の裏にある、真剣な想いが、互いの想いが、伝わる。
「全部……ちゃんと」

――教えて。

雲雀は目をゆっくりと閉じた。












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