◆さぁ、恋をはじめよう。(一部抜粋)◆ 「バッキー」 名前を呼ばれて、椿の体に緊張が走った。 自分を覗き込んでいる、ジーノの視線を感じる。 ふわっ、とジーノの息が椿の頬にかかった。 「お……」 口の中が乾いてしまって、声がでない。 椿は彫刻のように固まったまま、自分の心臓の鼓動が、ドックドックと聞こえてくる。 それだけではなく動脈の波打つような収縮や、静脈のそれさえも、とてつもないリアリティを持って感じるのだ。 「ねぇ」 ふわりとジーノの吐息が空気を揺らす。 椿は、膝の上で手を握りしめる。 心臓の鼓動が早く、大きくなってくる。 「バッキー」 歌うように呼ばれる名前に、椿は泣きそうになった。 握りしめた椿の手を、ジーノのそれが包むように触れた。 椿は更に手を握り締める。 どうしていいのか。 どうしてこうなったのか。 思い出そうと、考えようとするけれど、椿の頭のなかはぐちゃぐちゃで、混乱しきっていて、そして、自分の鼓動がうるさくて、何も考えられなかった。 「バッキー。――こっちを向いて」 ジーノが、歌うように誘う。 セイレーンのようだ、と思うような詩心を椿は持ち合わせていなかったが、まさしく、その声に誘われた。 椿はゆっくりと、首を動かす。 ぎこちなく、軋む音さえ聞こえるが如くにぎこちなく、ゆっくりと動かした。 椿の目の前に、ジーノの白磁のような頬があるのだろう。 近すぎて距離感が上手くつかめない。 椿は瞼を閉じ、一息吐いく。 目を開けると、ジーノの黒い瞳がそこにあった。 「――お……う、じ」 かさかさに乾いた唇で、辛うじてそう言った椿に、ジーノはふわりと微笑みかけた。 ゆっくりと、ジーノの瞼が閉じ、空気が動いた。 ――唇が椿のそれへと触れた。 椿の混乱は、頂点に達した。 |