さぁ、恋をはじめよう。(一部抜粋)




「バッキー」
名前を呼ばれて、椿の体に緊張が走った。
自分を覗き込んでいる、ジーノの視線を感じる。
ふわっ、とジーノの息が椿の頬にかかった。
「お……」
口の中が乾いてしまって、声がでない。
椿は彫刻のように固まったまま、自分の心臓の鼓動が、ドックドックと聞こえてくる。
それだけではなく動脈の波打つような収縮や、静脈のそれさえも、とてつもないリアリティを持って感じるのだ。
「ねぇ」
ふわりとジーノの吐息が空気を揺らす。
椿は、膝の上で手を握りしめる。
心臓の鼓動が早く、大きくなってくる。
「バッキー」
歌うように呼ばれる名前に、椿は泣きそうになった。
握りしめた椿の手を、ジーノのそれが包むように触れた。
椿は更に手を握り締める。

どうしていいのか。
どうしてこうなったのか。

思い出そうと、考えようとするけれど、椿の頭のなかはぐちゃぐちゃで、混乱しきっていて、そして、自分の鼓動がうるさくて、何も考えられなかった。
「バッキー。――こっちを向いて」
ジーノが、歌うように誘う。
セイレーンのようだ、と思うような詩心を椿は持ち合わせていなかったが、まさしく、その声に誘われた。
椿はゆっくりと、首を動かす。
ぎこちなく、軋む音さえ聞こえるが如くにぎこちなく、ゆっくりと動かした。
椿の目の前に、ジーノの白磁のような頬があるのだろう。
近すぎて距離感が上手くつかめない。
椿は瞼を閉じ、一息吐いく。
目を開けると、ジーノの黒い瞳がそこにあった。
「――お……う、じ」
かさかさに乾いた唇で、辛うじてそう言った椿に、ジーノはふわりと微笑みかけた。
ゆっくりと、ジーノの瞼が閉じ、空気が動いた。

――唇が椿のそれへと触れた。

椿の混乱は、頂点に達した。








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