真夜中に目が覚めた。
どことなく重い瞼を薄ぼんやりと開く。窓から射しこんでくる一条の光が、室内を照らし、その眩しさにジーノはめを細めた。
月が燦々と輝いているようだった。
寝なおそうと、体を丸める。
一人のベッドはやけに広く、広さに魅かれて購入し、今までは、その広さが心地よかったのに、何か、物足りない気がしてしまい……。
小さく息を吐いた。
目を瞑れば、そのまま眠れてしまえそうな輪郭が曖昧な意識があって、曖昧な意識があると思い至ってしまったが故の確かさで小さな意識が形作られてきてしまった。
こうなると、眠れない。
ジーノは目を瞑り、意識を手放すよう努力をした。だが、努力をすればするほど、頭の中の小さな意識の破片は明確な形を作り始めていく。
もう一度、息を吐いた。
微かな諦めが滲む。
体を動かし体勢を変えてみても、眠りは簡単に訪れそうになかった。
ぼんやりとした意識の中で、一つだけ浮かび上がってきた一つの小さな意識が正体を明瞭にしていく。
――ああ。
瞑った目の眉根を寄せた。
すっぱり、きっぱり。
未練などないと思っていたのに。
自分の選択は、いつでも正しいはずなのに。
気持ちが、揺れている。
小さな刺が心に刺さり、なかなか抜けずにいる。小さすぎる故、抜くことができない。
小さな、だが、鋭い、罪の意識。
――ボクとしたことが……。
ジーノは苦笑し、あっさりと眠ることを拒否した。
ベッドから起き上がり、水でも飲もうとキッチンへ向かう。ふと、窓の外を眺めてみると、案の定、月が仄白い輝きを放ち、東京の空にしては悪くない美しさを醸し出していた。
そういえば……。
あの青年は、自分の田舎の空がいかに美しいか、たどたどしい言葉で説明してくれた。夜空に輝く星の多さや、晴れ渡った日の青い空と流れる雲の爽快さを、拙い表現で、とても熱心に語っていた。
そして、東京には空がない、と詠った詩人のような感想を最後に述べていた。
空がない代わりに、光があるんだよ、とジーノは笑ったような気がする。今よりも、もう少し早い時間に、この窓から、地上の光の洪水を眺めて。
他愛のない、田舎出の青年のありがちな感想に過ぎなかったが、自然そのものというような純粋な青年を好ましく思った。
ジーノはその時の様子を思い浮かべ、声を出さず、微かに笑った。
密やかな笑いであった。
直後、ひどく苦い薬でも飲んだかのような難しい顔になり、頭を軽く振る。
――過去のコト、なんだから。
心にある鋭い痛みを無視しようと努力して、ジーノは寂しげに目を伏せた。
目覚めてしまった夜を、一人過ごす方法を模索しながら。
-----(中略)
勝ちもせず、負けもせず。
引き分けで終わった試合の後、どこか消化不良を残している選手が多い中、ジーノはさっさと着替えを済ませると、珍しく一番にバスに乗り込み、定位置へ座ると鞄から本を取り出し読み始めた。
少し経つと、他の選手たちも乗り込んできて、定員よりも少ない人数しか乗っていない車内が喧騒に満ちてくる。
今日の試合を反省するような会話が選手たちの間でなされている。それは、誰かに責任を被せるような言い合いではなく、理性的に今後の改善点を述べるような会話であった。こういう所一つをとってみても、昨年までのチームと明らかに変わってきているのが分かる。
こういう変化は好ましい。
「お疲れさん」
監督が、大きくも小さくもない声で選手たちに言った。
「今日は、引き分け、ということで、各自反省を確りしておくように。えー、明日は練習が休みだが、次は連戦になるからな。遊びすぎない程度に体を休めておくように。……で、いいですか? 監督」
「ん。いいんじゃない」
松原コーチが監督の代わりに選手たちへと指示を出すのも、馴染みの風景となってきている。
「あ、そうだ」
達海が思い出したようにつけ加えた。
「大切なのは、気持ちの切り替えだからな」
誰に言っているのか分らないが、選手一人一人がそれぞれに自分と照らし合わせて言葉を受け止める。
「ま、ゆっくり休むように」
達海が選手たちを見回す。
「分かったか、椿!」
「は、はい」
ぼんやりとしているらしい、椿へ檄を飛ばした。ジーノの座席から、椿の姿は見えないが、きっとびっくりして驚き顔で、それでも生真面目に返事を返しているのだろう。その様子を思い浮かべると、少し心が和み、と同時に、少し心が痛んだ。
達海が座席に座り、バスが発進する。
今日はこのまま東京まで帰るのだ。東京に着いたら、少しだけ、やらなくてはならないことがある。
自分を縛りつけるようなことは大嫌いだが、それでもこなすべき事はキチンとこなしていかなくてはならない。
ジーノは軽く息をつき、揺れる車内でも平然とした顔で本へと目を落とした。
気持ちの切り替えは、得意なのだ。
バスに乗り込んだ椿の目に入ってきたのは、悠々と後部座席を陣取って本を読んでいたジーノの姿であった。こんな場所でさえ、彼の姿はどことなく優雅に映り、彼の周りだけ華やか感じる。
ピッチの中でさえ。
ジーノの視界の広さや正確なパスワークは、勿論彼の武器であり持ち味であるが、存在感の大きさも彼の武器であるのかもしれない。
ピッチの外で見ていても、人の目を惹くジーノだが、それはピッチの中にいる人間にとっても同じだった。
勿論、視線はボールの行方を追っているが、選手の動きにも注意を払っていなければならない。そんな時、選手たちが自ずと注目してしまうような存在感のあるジーノがボールを集める役割をこなしていると、一石二鳥なのだ。デコイの役割すらもすんなりとこなしてしまうジーノは、それだけ敵の選手の目すらも惹きつけている、ということになるのだろう。
今日も、そのジーノは自分の武器をよく生かしていた。自分の魅力を熟知し、冷静で的確な判断力を持ち合わせているジーノならではの優美なプレイは、やはり華やかで、それでいて隙がなく、見る者を惹きつけずにはいない。
でも……。
自分の座席に座りながら、椿は思う。
――今日の王子は、どこかがヘンだった。
どこがどう、と具体的に指摘はできないけれど、どこかヘンであったのだ。
一昨日、ジーノが早退した練習の時にも感じたことだ。だが、昨日の練習ではいつも通りで、椿は自分の気のせいかとも思ったのだった。
数日前から、度々感じることがあった。
しかし、今日のジーノは、やはり、何か違和感があった。
尤も、試合中の椿にはあまり周囲の様子を、細かい感情の動きまで観察する余裕はないが、試合前や試合後のジーノの雰囲気が、どこか違ったのだ。
その理由は、分らない。
分らないけど、もしかしたら自分のせいかもしれない。二人で会っている時、ジーノの失望することばかりをやってしまうのだ。
成長のない自分に彼が不快感を示すのは仕様のないことである。
だが、ジーノがどこかヘンな理由が自分になる、などと考えること自体が、椿の思い上がりのような気になって、はぁ、と溜息をついた。
「分かったか、椿!」
不意に、名前を呼ばれた。
「は、はい」
どうやら自分の思考に沈んでいたため、達海の言葉を確りと聞いていなかったようだ。椿は、しまった、と思い、微かに頷いてから達海が席についたのを確認すると、ちらりと後部座席を振り返った。
ジーノが微かに眉を寄せ、視線を本へと戻していった。
こんな所でも注意を受けてしまう椿に、怒っているのだろうか。
――東京についたら、謝ろう。
自分が原因だとは思わないが、ジーノの気に障っていることは確かみたいだから。
椿は小さくため息をついた。