躊躇いと戸惑いの交差点(一部抜粋)




「椿、彼女とかいないの?」
ニヤニヤしながら丹波がビールを飲む。
「はぁ、……特に」
困惑した表情を浮かべ、椿は首を傾げる。
「タンさん。椿に彼女がいたら、俺ショックで死んじゃいますよ」
「何だよ世良、お前椿に惚れてるの?」
ジョッキ片手に何故か堺に絡む世良をにやにやと石神が野次る。
「ち、違いますって。俺は女の子が好きっすから」
ピシッと硬直した世良の頭を軽く堺がはたく。
「った……。何するんすか、堺さん」
「耳元で騒ぐな。うるさい」
ストイックにウーロン茶を飲むと、もう一度おまけとばかりに世良の頭をはたく。
「わー、暴力反対。俺がバカになったらどうするんすか」
「バカになったらモテるかもしれないぞ」真剣な表情で諭す石神に「本当っすか」と驚く世良。その傍で呆れた様子で赤崎が魚の身を綺麗に骨から取っている。
「バカな子程可愛いっていうしな」
ぼそりと言った堀田の言葉に、そうそう、と丹波が頷く。
「マジっすか。俺、バカでいいかも」
「はぁ」
騒がしい先輩たちを見て、椿は楽しいなと思った。
そして、ほっとしてもいた。
自分に話を振られるのも、話をするのも苦手だ。上手い受け答えなどできないのだ。
もっとも、こいうい飲み会に何度か参加するうちに、分かってきたことがある。誰も、答えが欲しくて話しているわけではないということだ。
椿に話を振るのは、そこから話題を広めていくことの取っ掛かりに過ぎず、椿が上手に答えることができないのも織り込み済みなのである。椿が曖昧な答えをすれば、そこに世良が食いついて、食いついた世良を周りがからかうという流れになるのだ。椿が何どんなことを言っても、誰かが場を盛り上げて楽しい時間になることは必定なのだが、逆に言えば椿がどんな答えをした所で、結果が変わるわけではない。
何となく飲み会の雰囲気というものに慣れてくるうちに、場の空気が分かって来たのだ。だから、今でも椿は自分に話が延々と振られ続けなかったことに安堵して、楽しく座に溶け込んでいることができる。
計算ずくではないけれど、どことなく処世術的なものを身につけてきているのは確かだ。
テーブルの上の食べ物もあらかた片付けられ、世良もいい具合に酔っ払ってきている。
そろそろお開きになることだろうな、と思っていると、案の定、堺が財布を持って立ちあがった。
その拍子に堺に寄りかかっていた世良が床に倒れ込む。「酷いっスよ、堺さん」
嘘泣きをする世良の背中を慰めるように周りの人間がバシバシ叩いた。
そうこうしている間に、手早く会計を済ませた堺が割り当ての金額を伝える。
かなり傾斜の入った会計に最初は戸惑った椿であったが、最近では素直に先輩たちの好意に甘えることにしていた。
「よし、帰るぞ」
決断力のある物言いが、逆に酔っているのか酔っていないのかよく分からなくしている石神がさっさと店を出る。それに続き、「ごちそうさまでした」と若手が帰り支度を始めた。椿もそそくさと立ち上がる。
「椿、これ、よろしく」
堺が床に寝ころんでいる世良を指さす。
「堺さん、酷い。俺も一緒に帰ります」
「お前は椿と帰れ」
「堺さんと一緒がいいっす」盛大にため息をつき、堺は世良を置いてさっさと出て行ってしまう。慌てて起き上がった世良は、完全に酔っ払っていて少しよろける。
「大丈夫っすか」
「大丈夫だって。帰るぞ、椿」
先輩風を吹かしながらも、よろよろと世良が歩きだし、椿はそんな世良の後を追った。
外に出ると、既に歩きだしているメンバーもおり、椿も世良と並んで、そして面倒見の良い堺が後ろをくっついて歩いている世良を気にしながら歩いていた。
「つーか、椿。俺って、そんなにいけてないかなぁ」
「はぁ」
「何だよ、その返事。いけてないってことか?そうなのか?」
「うっせぇよ。黙って歩け」
もてるもてないを引きずっている世良がここぞとばかりに椿に絡む。そんな世良を煩わしそうに堺が窘める。「はぁ、俺も王子位モテモテならいいのに」
「へ?王子」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった椿に、ふらふらとしながら世良が言う。
「そう、王子。俺、見ちゃったんだね。王子が女の子とデートしているトコ」
すっげぇ美人だった、羨ましい、と叫ぶ世良の頭を堺がはたく。
「うるさい。大声出すなよ。夜だぞ」
周りも似たような酔っ払いが多いとはいえ、住宅街も近くにあるのだ。それに、知っている人が見れば、ETUの選手だと分かるだろう。堺の注意はもっともといえる。
「それに、ジーノが女と遊ぶのなんて、いつもの事だろうが」
「それが羨ましいんっスよ。はぁ、俺も美人とデートしたいっス」
握りこぶしで力説する世良の頭がもう一度はたかれる。堺は呆れたように、世良を見下ろした。
「ジーノに紹介して貰えばいいだろ」
「それは、どうっスかね。何か、ワケアリって感じだったから」
「バカか。他の美人を紹介して貰えって」
「あ、そうっスね。堺さん、頭いいなぁ」
尊敬の眼差しを向ける世良に、盛大なため息をはく。
「椿、後は頼んだぞ」
「……あ、はい」
「どうかしたか?」
「いえ……」
困ったような表情を堺に向ける。
帰り道の方向が世良と一緒なので、大抵飲み会の後はこうなるのだ。だから、今更困ったりはしない。
そうではなくて、椿は先程の世良の言葉が気になっているのだ。
「えええ。堺さん、帰っちゃうんっスかぁ。もう一軒行きましょうよ」
「悪いな」
「今日は、ありがとうございます。お疲れさまでした」「ああ。よろしく」
「はい」
「堺さん、また明日。よろしくっス」
「あぁ」
世良にはなおざりな返事を返す。
そんな堺の後姿を捨てられた子犬のように世良が見送っている。
見慣れたいつもの光景。
だが、椿の心は違う所に囚われていて……。
「はぁ……。帰るか」
「はい」
先程までの賑やかさが嘘のように、二人は静かに歩く。気詰りはないけれど、特に話すこともないのだ。世良が話題を提供しない限り、椿から話しかけることは滅多にない。
しかし今は、訊いてみたいことがある。だが、どうやって訊けばいいのか分からずにいる。
「彼女、……か」
世良が盛大にため息をついた。
「欲しいよなぁ……」
どこか夢見るような調子で、空を見上げる。つられて椿も空を見上げてみたが、街の明かりの延長がそこにはあるだけで、作り物めいた夜があるだけだった。「あの……、世良さん」
「お前もそう思うだろ、な」
恐る恐るかけた声を世良の元気な声がかき消す。
「は、はぁ」
「何だよ、その返事は。……まさか、お前、彼女がいたりするのか?椿のくせに生意気だぞ」
「えっ、あ、ち、違います」
一人で驚き怒る世良に慌てて椿は否定をする。
自分で否定して、少しだけ心が痛んだ気がした。
「そうだよな。椿に彼女ができて、俺にできないわけないもんな」
世良は一人納得し、椿の背中を叩く。
小柄な体のどこにこんな力がと思う程の酔っ払いの手加減のなさで、思わず椿はよろめいた。
「しっかり歩けよ、椿」
自分のことは棚にあげ、世良が笑う。
「……に、しても。王子の連れてた女の子、本当にスゲー可愛かったんだよな」急に思い出したのか、世良が憧れのため息をつく。
「俺も、あんな可愛い女の子を彼女にするぞ!」
「せ、世良さん」
吠える様に宣言した世良を慌てて椿が止めた。
「ん?」
「あ、あの……夜ですし」
「あ、ああ」
酔いが少し醒めてきたのだろうか。世良の表情からふわふわしたものが消えていく。
「……あの」
「何だ?」
椿は世良の顔をちらりと見た。
「い、いえ。何でもないです」
世良が見たという『ジーノの彼女』について、訊きたくて仕方がないのだ。
だけど、そんなことを訊くのはジーノに失礼な気がして、中々言い出せない。
「はっはーん」
そんな椿の逡巡を本能的な鋭さで、だがどこかずれて察した世良が意味ありげに笑った。
「お前も気になるんだろ、王子の彼女」『王子の』という言葉にも、『彼女』という言葉にも、心臓がずきりとする。
「スッゲー美人だったからな。可愛い系、というか、いや、美人系かな」
一人で記憶を思い出し確認しては、世良は頷く。
「いつもなら王子って外車に乗ってるのに、その日は珍しくタクシーでさ。どこだっけ、……ほら、あそこにある高級ホテル。そこに入ってくの見たんだよな」
「世良さんは……」
椿は、訊かなくてもいいことを、つい訊いてしまう。
「俺?俺は、たまたま買い物に行ってて。従姉妹が、マンゴープリンが食べたいっていうから送れって言われてさ。あんなの、美味いのかな?」
「さぁ……」
あまり甘いものを食べない椿は、そんな質問に答えようもなく曖昧に首を傾げた。「で、買い物してたら王子が彼女と一緒にホテルに入ってきて。スッゲーびっくりして、俺思わず隠れちゃったよ」
隠れてどうするのだ、とも思うのだが、隠れてしまう気分も分からなくはない。自分がそんな場面に遭遇したら、きっと隠れてしまうだろう。いや、隠れることすらできず、硬直して動けなくなってしまうに違いない。
「なーんか、いつもの王子と違って、真面目っていうか、真剣ですって感じでさ……。王子って彼女とか多そうだけど、実は本命の彼女ことはすっごく隠してるっていうか、大切にしてるっていうか、……そんな感じ?」
『真剣』とか『本命』とか、『大切』……。そんなキーワードめいた単語だけが、椿の頭に入ってくる。
全て世良の憶測に過ぎないというのに、心臓がきゅっとなって、どきどきが大きくなって、目の前が暗くなってしまうような気分になってしまう。「あ、の……」
「ん?」
やっとのことで声を絞り出す。
「それって……」
いつのことだったのか、どこだったのか、何があったのか、すごく、知りたかった。
だが、聞いてしまったらどうしようもなくなってしまうような気もする。
大体、ジーノのプライベートは椿には関係ないのだ。
「……いつの……」
関係ないけれど、それでも、知りたかった。
「えっと、この前のオフの日」
急に、目の前が真っ暗になった気がした。
心当たりがありすぎるのだ。
先日のオフの日も、ジーノと会いたかった。だけど、ジーノにやんわりと拒絶されたのだ。
――そういえば、……『大切な人』に会うって。
その時は、落胆もしたが、ジーノにはジーノの付き合いがあるのだと納得した。詮索していいような雰囲気でも、況してやそんな関係でもないのだから、何も尋ねなかった。
椿は少し残念に思い、僅かに傷ついて、それで話は終わったのだ。
――『大切な人』って、女の子、……だったんだ。
鈍い椿でも分かる程単純な図式。
本命の彼女と会うから、椿とは会えない、という。ただ、それだけのことだったのだ。
ジーノはきっと椿の心情を慮って、優しい嘘をついたのだろう。
「おい、椿。大丈夫か?」
すっかり酔いも醒めた世良が、急に立ち止った椿の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫です」
「何だよ、驚かすなよ。お前あんまり飲んでなかったのに、気持ち悪くなったのかと思ったじゃん」
「すみません……」
語尾が震えているのが分かる。言われてみると、気分まで悪くなってくる。
「や、いいって。それじゃ、俺こっちだから。……本当に大丈夫か?」
「は……い」
硬直したような表情を隠すように、椿は「お疲れさまでした」と頭を下げた。
「お、おう」
「それじゃぁ」
「気をつけて帰れよ」
もう一度頭を下げると、脱兎の如く走り出す。
世良を送っていくはずが、逆に心配されながら椿は見送られた。
だが、そんな状況もよく理解できず、椿は湧き上がってくる悲しいような悔しいような寂しいような怒っているようなもやもやとした気持ちをどうにか処そうとしていた。
とりあえず、全力で家まで走れば、その間だけは忘れてられるはずだ。
椿は、夜道をひた走った。








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