◆ Vendetta di Sangue ◆ 「10代目」 獄寺が渡した資料を読み終わったツナの顔が曇っていく。 「あ、ああ。」 トントン、と資料を元のファイルに纏めて入れ直し、獄寺へと渡す。 「それでは、この通りでいいですか」 「そうだね…この辺りが相手にとっても、ボンゴレにとっても落とし所だろうね」 「もう少し、こちらの言い分を通すこともできますが」 「…やめておこう。ここで強硬になって目先の利益を優先させるよりも、後々まで禍根を残さない方がいいと思う」 「分かりました」 敬愛するボスの判断が、自分の判断と一緒だったことに獄寺はちょっと微笑み、渡された資料を小脇へ抱える。 「最終的な交渉は誰が行くの?」 「…私が」 「獄寺君が?」 獄寺君、という時のツナの表情が先刻までのボスとしての顔ではなく、どことなく昔の、子供の頃に獄寺に困らされていた時の、獄寺を友達として心配している時の顔になる。 「はい」 そのツナの表情を見て取って、大丈夫です、と獄寺は笑いかけた。 「これまでの交渉で、実務レベルでの話にとどめるよう相手も言ってきています。先方の窓口とは私も何度か会っておりますし、特に問題はないかと思います。」 「そう、そうだね」 穏やかに話す獄寺に、ツナは安心したように肩を落とす。 「獄寺君なら、僕の右腕だし、問題はないよね」 自分に言い聞かせるように話すツナが、思い出したように付け加える。 「…向こうは一人で来るの?」 「いえ、人数についてはこれから調整しますが、他にも何人か同席する予定です」 「警護は?」 「警護についても、お互いが納得できる最低人数の部下を連れていく予定です」 「そう…」 何か問題なのだろうか、ツナが真剣な表情で獄寺を見た。 「誰か、守護者を連れて行って」 「守護者…をですか」 何が、ツナを心配させているのだろうか。 獄寺は訝しむ。 現在、本部に守護者はいない。 例の事件の後始末のため、ツナと獄寺がイタリアへ来てこちらの組織を立て直し、雲雀は日本で仕事をしている。他の守護者はあちこちを、それぞれが忙しく動きまわっている。 「無理…だよね」 ツナが苦笑しながら、それでもとても心配そうな顔をしてため息をついた。 「だったら」 ボスの心配をそのままにしておくなどということが、獄寺にできるわけなく。 「だったら、シャマルに同席してもらいます」 自分の口からとっさに出た人物名に、自分でびっくりしてしまう。 「あ、ほら、シャマルなら元殺し屋だし。あんな情けないオヤジがまさか護衛だとは思わないだろうし…ひまそうだし」 慌てて、いい訳じみた、というよりもこれは完璧ないい訳である、を獄寺は口にする。 「そうだね。ドクターが一緒なら心強いよね」 少しほっとした様子で、じゃぁ、僕からドクターに頼もうか、と微笑むツナへ獄寺が更に慌てたように言った。 「俺から伝えますので。こんなことで十代目のお手を煩わせるわけにはいきません」 「お手を煩わせる…って。相変わらず獄寺君は大げさだね」 くすくす笑いながら、ツナは獄寺へちょっと頷く。 「よろしくね。獄寺君」 「分かりました。十代目」 ツナを安心させることに成功したようで、獄寺も安心し、真面目な顔をして頭を下げる。 「それでは、これで」 顔を上げてにこりと笑い、ツナの部屋を辞した。 イタリアのボンゴレ本部は、長い長い歴史の刻まれた石造りの建物である。 途中大規模な修繕はあったものの、その礎は一代目の頃から代わっておらず、何人もの人間の影が沁み込んでいるのだ。 イタリアの本部へ来ると、いつでもその歴史の深さに心を打たれ、ボンゴレの一員としての自分を改めて発見するのだ。 廊下を一人歩く獄寺もまた、いつかはボンゴレの歴史の一部となるのだと、歴史の一部になることによって、後世までボンゴレが残ることを望み、願い、そして、そのために行動をしているのだ、ということを。 だから、彼個人の取るに足らない感情など、全く問題ではないのだ。 年上の男のことに関する、個人的な感情など。 先ほど、十代目の部屋で、とっさに出した名前がシャマルであったことに関して、何の意味もないのだ。ただ単にシャマルが、現在イタリアにいて、守護者と同等の力を持ち、尚且つ、時間がありそうな者、という条件を満たしていたに過ぎない。 だから、シャマルを選んだ理由に獄寺個人の意図はない。 大理石の廊下に引かれた足の長い絨毯を踏みしめながら、窓から差し込んでくる日の光に眩暈を覚えそうになる。 こんな、個人的な感情に関わっているひまはない。 今は、対抗組織との手打ちについてを、そして他の諸々の案件についてを考えなくてはならないのだ。 そして、早くファミリーを往時のボンゴレへと戻していかなくてはならない。 今回の手打ちにしても、事件自体は些細なことだった。 しかし、その性格上、放っておくことは決してできない種類のものであった。 例の事件によって台頭した弱小組織が、本来ボンゴレの縄張りであった地区にある商店、規模自体は小さいものだがその地区で先祖代々店をやっているという歴史がその商店にはあった、を買収しようとしたのが発端だ。 あわや、という所で気づいた店主がボンゴレへ相談をし、ボンゴレで裏を探った所、他の組織の介入が浮上してきた。 縄張りの中の昔からある商店一つを守りきれない、というのはボンゴレにとって最も恥とすべきことの一つだ。そのため、その組織との交渉をボンゴレが買って出たのだ。 グローバルな世の中になったとはいえ、自分たちの組織は地元に根付いたものであるという意識は決して失われるものではない。 世界規模の戦略とは別に、彼らには重んずべき伝統と掲げるべき誇りがあるのだ。 例え、相手の組織がただボンゴレを同じ土俵に立たすために、ボンゴレという大きな組織を相手に事を構えるだけの力があることを誇示するためだけの策略だとしても、打ち捨てておくわけにはいかなかった。 このような小さな信頼の積み重ねが、本日のボンゴレを作っているのだ。数万ドルの金が動く取引とその重さは何ら変わることはない。 ツナの部屋から、獄寺に割り当てられている執務室への短い距離が、やけに長く感じてしまう。 自分は緊張しているのだろうか。 獄寺は息をつく。 気負うことなく、淡々と、それでいて決して手を抜かず。 普段と変わることなく、この仕事もこなしていけばいい。 手打ちに関しての最終チェックをするために、自室のドアを開けた。 「お帰り、隼人」 自分のアパルトマンへ帰った獄寺を、珍しく素面のシャマルが出迎えた。 部屋に灯りがともっているのを外から見て、もしかして、と思った獄寺だったが、期待通りシャマルがいたことに安堵した。 期待? 何もこの男に期待することはないというのに、一体、何を、自分は期待し、そして何に対する安堵を得ているのだろうか。 「ただいま」 短い言葉を口にする間にも、獄寺の思考は目まぐるしく展開していく。 「メシは?」 ダイニングテーブルへと、客を呼ぶあてもないのに何故か4人掛けのテーブルだ、獄寺は近寄る。 不意に、目の前が真っ暗になった。 目を開けると、シャマルが覗き込んでいた。 真剣なシャマルの瞳。だが、それは親しい者を心配する目ではなく、患者を冷静に分析する医者の目だと獄寺は思った。闇でも医者だから仕方のないことだろうけど。 「気がついたか」 その瞳の色がふわりと優しさを帯びた。 「俺…」 「貧血だろ」 目の奥がまだぼうっとしているが、獄寺は立ちあがろうとしてシャマルに止められた。 「大丈夫…」 シャマルの手を振り払うように、獄寺は立ち上がる。 一緒に、獄寺の体を支えるようにシャマルも立ち上がった。 「今、気付けを持ってくるから、そこに座ってろ」 ダイニングの椅子へ獄寺を座らせ、シャマルがキッチンへと消えた。 テーブルへ肘を突き、獄寺はクリアにならない頭を支えるように、手で額を支えるように俯いた。 立ち眩み…だったのだろうか? そうではなく、確かに自分は意識を失い、倒れたのだ。 倒れた瞬間については全く憶えていないが、憶えていないことが無様にも意識を失ったことの証明のようなものだ。 獄寺は息をつく。 体調が悪い、と思ったことはここ数日なかった。 確かに、この所処理をしなければいけない仕事が多く、睡眠が足りていないのは事実だ。だが、それ位のことで倒れるわけはない。健康には、それなりに自信があった。 だったら…。 キッチンから、電子レンジのチンという音が響いてきた。 落ち着いた足取りで、スリッパの音をぱたぱたとさせながらシャマルが近寄ってくるのが分かる。 頬っぺたに暖かいものが触れる。 「隼人、これ飲んで落ち着け」 顔を上げた獄寺の側に、コップが置かれた。 ワインが微かに湯気を立てコップの半分くらいまで注がれていた。 「少し疲れてるんじゃないか。お前、頭の中でごちゃごちゃ考え過ぎなんだよ。もう少し気を楽に…」 シャマルの言葉が、今の獄寺にとってはただの音にすぎなかった。 話の内容が全く理解できない。 ただ、コップに注がれたワインが血のように赤いな、などと愚にもつかないことを思っただけだ。 いや、血よりも綺麗だと。 どろりとした、どす黒さがこのワインにはない。 「…隼人」 動こうとしない獄寺の隣に腰掛けながら、シャマルが獄寺の肩を抱く。 その手が肩に触れた瞬間、獄寺の手がシャマルの手をぱんと弾いた。 驚きにシャマルの眉が跳ね上がる。 獄寺もまた。 まともに合った目を伏せ、獄寺が言葉を絞り出す。 「…悪い」 「いや…」 行き場の失った手を握り、シャマルが立ち上がる。 「隼人、それ飲んで、メシが食えるようなら食え。そして早く寝ろよ」 手をひらひらさせ、玄関へと向かう。 「お前、明日休みだったろ。気分転換に買い物にでも行こうぜ。約束だぞ」 シャマルの手の甲が赤くなっているのが、遠目にも分かった。 その後ろ姿を目で追っていた獄寺だったが、 「シャマル」 と、立ち上がった。 その拍子にコップが倒れる。 しかし、獄寺の声はシャマルに届くことなく、玄関のドアは閉められた。 机に突いた指へと、生暖かいワインが触れる。 指先の湿り気が気になり、机から手を離す。 その指を口元に当て、ちろりと嘗める。 極上の、ワインの味しかしなかった。 これが本当の血ならばよかったのに。 何故だか、そう思った。 自然と目が覚めるまで寝ていたのは、久しぶりだった。 体を起こすと、獄寺は体を伸ばす。 かなり熟睡していたのだろう。骨や筋肉が固まっているようで、伸びた体が気持ちよかった。 体の強張りがなくなり、獄寺の頭も明確になってくる。 そして、思い出すのは昨夜の出来事。 部屋から出て行ったシャマルが戻ってきた痕跡は見当たらない。 彼がどこで夜を明かそうと、獄寺の知ったことではない。 そう、獄寺には関係ないことなのだ。 勢いをつけてベッドから降りる。 買い物の約束をした。 どこで、とも、何時、とも言わなかった。 しかし、買い物の約束をした。 勝手に、一方的に。 のろのろとベッドから這い出し、寝室を出る。 ドアを閉める前に部屋を眺めると、物の少ない部屋の中にある大きなベッドがひどく生々しく、その生々しさの分だけ物悲しげに見えた。 リビングへ行くと、平素と何一つ変わらぬシャマルの姿があった。 「シャ…マル」 「起きたか」 驚いて、足が動かなくなってしまった獄寺に、やはり平素と何一つ変わらずシャマルが笑いかける。 器用にフライパンを扱い、オムレットを生野菜の乗った皿に盛り付ける。 二人分の料理をテーブルまで運び、次いで、切り分けられたバゲットとバターとを並べ、シャマルは椅子に座る。 まだ、立ったままでいる獄寺を見つめ、「隼人、座って、飯食えよ」と促した。 獄寺は、生返事をし、慌ててテーブルに着いた。 しかし、食事に手を伸ばすことはせず、塩と胡椒をオムレットに降りかけ食事をするシャマルを見つめていた。 「…隼人?冷めちまうぞ」 シャマルが優しく笑った。 変わらない日常の、変わらない一コマのはずなのに、獄寺は自分が今何をすればいいのか分からず、ぎこちない手つきでやっとバゲットに手を伸ばした。 ぱさついた感触だけが口の中に広がり、味がよく分らなかった。 「こっちも食えよ」 やはり、目元に優しさを湛え、シャマルが獄寺にオムレットを勧める。 獄寺は黙ったまま、機械的にバゲットを置き、言われるがままにフォークを持ち、オムレットをつつく。 フォークで割ると、とろりとした中身が湯気とともにこぼれ出た。 普通ならば食欲をそそる質感なのだろう。しかし、獄寺は吐き気のような気分の悪さを覚えてしまう。 それでも、固形と液体の中間を綺麗に保っているオムレットをフォークで掬う。 掬うのだが、また皿に戻してしまった。 獄寺が皿から目をあげると、気遣わしげなシャマルの視線とぶつかった。 ただ、獄寺のことを心配していることだけが分かる。 シャマルの気遣い、優しさ、全てが分かり過ぎるほど、分かっているのだ。 だが、分かるが故に、獄寺の感情が逆撫でられ、そんなどうしようもない気持ちを持て余してしまう。 何か、言わなくては。 この、重くのしかかる気持ちと、沈黙、そしてシャマルの優しさから逃れるために、何か言わなくては。 「あ…」 試しに声を出してみる。 自分のものなのか、判別できないくらい遠くから響く声は、それでも間違えなく自分のものなのだ。 「あ…あのさ」 もう一度、今度は短く言葉にしてみる。 舌は固まっておらず、動くようだ。 絞り出すような獄寺の声に、シャマル視線が更に優しく、憐みとも取れる程優しくなり、自分の体が、そして心がきゅっと萎縮してしまったように獄寺は感じた。 だが、一旦話始めたならば、ここで止めるのは不自然なのだ。 そう言いきかけ、言葉を続けた。 「あのさ、今度の手打ち式だけど」 子供に戻ってしまったかのような、そんな口調でしか話せないのが、ひどく厭わしい。 「ああ」 そして、自分を見つめるシャマルの視線も、やはり厭わしいのだ。 「一緒に、来て、くれ」 言葉の羅列が、それでも獄寺の口から飛び出して、シャマルへと投げられる。 シャマルは、獄寺の言ったことが事前に分かっていたかの如く、穏やかな表情のまま、「ああ、いいぜ」と諾を発す。 あまりにも穏やかなシャマルの表情に、獄寺は自分の厭わしい感情も、逡巡も、本当にい言ったかったことも、全て分かられているような、そんな錯覚にさえ陥る。 本当は。 本当は、何を言いたかったのだろうか? 自らに問いかけ、答えは分かっているけれど、あまりにも低俗な感情に、見て見ぬふりを決め込むことしか、やはりできないでいるのだ。 「隼人」 自分の心に沈みそうになる獄寺に、やはり穏やかなシャマルの声が沁み入ってくる。遠慮も何もなく、獄寺へと入り込んでくるのだ。 「早く飯食って、出かけようぜ」 ニヤリと笑い、シャマルは健啖さを発揮し、朝食を片づけ始めた。 そんなシャマルにつられ、獄寺も、オムレットに手を伸ばす。 フォークで掬い、口に運ぶ。 冷めてはいたが、微かに味が感じられた。 もう一口、食す。 段々と、モノクロームの世界に少しずつ色が付くような、不思議な感覚が体を駆け巡る。 「隼人」 また、シャマルが名前を呼んだ。 自分の名前が“隼人”ということさえ、長い間忘れていたような気もしてくるのだ。 シャマルが、フォークを皿に伏せる。 そのまま、流れるような動きで中腰になり、食卓越しに体を寄せ獄寺の顔へと手を伸ばす。 さらりとした感触。 自分の名前と同じくらい、長い間忘れていたような感触に、獄寺は目を細めた。 「あまり難しく考えるなよ」 シャマルが囁く。 世界は単純で、獄寺も、そしてシャマルも単純に、生きるために生きている。 そう思い、獄寺は安堵する。 心の平安を取り戻す。 だが、しかし、その安堵も、平安も、全てが仮初の一時的なものでしかないことも、獄寺はよく分かっていた。 そして、自分も、シャマルも、そんなに単純に生きていないということも、嫌というほど分かっていた。 束の間の安らぎに、涙が出そうになり、獄寺は慌ててシャマルから顔を背けた。 二人は、町へと出かけ、獄寺のスーツとシャツ、ネクタイをシャマルの見立てでオーダーし、靴を買ってきた。 |