◆ stupid child or ... ◆ 放課後の学校というのは、独特の空気がある。 心地よい開放感、そう、世界は平和で憂うべきものは何もないというような雰囲気が。 とはいえ、子供には子供の大人には大人の悩みがあるように、むしろ子供の悩みの方が世界が閉ざされている分深くて真剣なものであるように、その平和な空気の中にも絶妙な緊張感が巧妙に隠されているのだが。 そんな空気のなか、獄寺は保健室へと続く廊下を歩いていた。 引き戸を開けると、ガラガラと時代錯誤な音がする。 「シャマル、いるか?」 大きな声で部屋の主を呼ぶ。 ごそごそと慌てて動く気配が部屋の奥からしてきた。 「何やってんだよ…たく」 獄寺がぶつくさ言いながら部屋の中へと足を踏み入れようとした時。 ジャッ、とカーテンが引かれる音がしてシャマルが現れる。 「なんだ、隼人か」 崩れた服装。 その崩れ方は、だらしがないからというよりも慌てて服を身に着けたから生じた崩れ方だった。 「用がないなら、帰れよ」 邪険に手を振り、獄寺を追い払おうとする。そのシャマルの背後で「でも…」とか「やっぱり」とか小さな声で抗議する女の声がした。 状況を理解し、獄寺は半眼でシャマルを睨みつける。 「たく、しょうがねぇな……廊下にいるから」 叩きつけるように保健室のドアを閉めた。 廊下に出た獄寺は読みたくもないポスター、手洗いうがいによる風邪の予防効果の記事を眺めていた。 根拠薄弱なアジテーションだと思い、隣のポスターに移ろうか、という所でがらがらと音も密やかに中から女性教師が出てきた。 「…内緒にしてね」 と、密やかなそれ故艶っぽい生身の声で獄寺に頼むと、すっと背筋を伸ばしコツンコツンといい音を立て廊下を遠ざかっていく。 すれ違う生徒に「さようなら」と、いかにも教師らしいやけにはっきりした口調で朗らかな挨拶をするのが聞こえると、獄寺は泥水でも飲んだような気分になった。むかつく。何がどうという説明は上手くできないが、むかついたので荒々しく保健室に入った。 「隼人、お前顔がヘンだぞ」 「うっせーよ。お前もあんなお堅い教師引っ掛けてんじゃねぇよ」 「彼女、固いわけじゃないかどね…隼人の夢は壊さないでいてあげようか。下着が白だと信じたい年頃だろうしな」 にやにやと余裕の表情で見下ろすシャマルの横を通りさっさと部屋の中に入り、獄寺は診察用の丸い椅子に腰掛けた。 「つーか、何の用事だよ。珍しい」 「用なんかねぇよ」 「用がないなら来るなよ」 コーヒーでいいか、とそれでもシャマルが尋ねる。暫くすると機会音と共に香ばしい匂いが漂いだす。 「ほれ」 ビーカーからマグカップにコーヒーを分けいれ、シャマルが獄寺に差し出した。 「…そのビーカー、綺麗か?」 不審な眼差しで差し出されたカップを見つめ、慎重に口をつける。 「あ、うまい」 懐かしいコーヒーの味がした。 「だろ。特別に仕入れてるからな」 シャマルの目が細まる。 こんなに穏やかな顔も出来たのか、と獄寺は驚いた。知っている顔といえば、父親の城に女連れで来ていた時のすかした顔や、人をばかにする時の皮肉な笑い、ほんの数回しか見たことがないが痛さを感じる壮絶な笑い、それ位しかない。それも昔の記憶でどこかぼんやりとしたものへとなっていたが。 もっと知っていると思ったのに、意外と少ないものだと獄寺は思った。それだけシャマルが表情を顔に出さないだけなのだと。 きっともっと隠れた表情は多いはずで…。別に見たいとも思わないけど。 「で、今日はどうした。ツナは?」 「……十代目は大切な用事があって残ってる」 「補習か。…で、お前はツナの補修が終わるまで待ってるわけか、右腕として」 くすりと笑うと大胆な仕草でコーヒーを飲む。 シャマルの推測通りだった。一緒に残ると言った獄寺を困ったような顔で見上げてやんわりと断り、それじゃぁ終わるまで待っていますと主張した獄寺にやはり曖昧な微笑を見せたものの拒否はしなかった。拒否されないということは承諾したということだと獄寺は勝手に解釈し、時間つぶしのために保健室を訪れたのだ。 「てめぇには関係ないだろ」 どうして保健室に来たのか、と問われても正確な答えなどなかった。ただなんとなく。 なんとなく、シャマルと話したかった。 流暢に操れるとはいえ、日本語は獄寺にとっての母国語ではない。小さいときから使い分けが出来ているし、記憶力は抜群にいいので苦労した記憶もないけれど、それでも日本語を使うのは限られた人相手だけで、愛着らしい愛着もあまりなかった。日本に来て、10代目の右腕となると決意したときに、それはとても特別なものへと変化していったけれども。それでもやはり自分の母国語はイタリア語なのだという自覚はあった。 現在の環境でイタリア語を使っての会話が出来る相手というのは、姉にリボーン、跳ね馬とシャマル位しかいなかった。姉にいたっては顔すら見ることができないし、リボーンは雲の上のような存在だ。跳ね馬は忙しく飛び回ってる上に、たまに居るなと思うと例の風紀委員長にちょっかいをかけていることが多い。結局、消去法で考えると話し相手はシャマルしかいなかった。 大抵、保健室にいるし、ひまそうにしているし。 「あーあ、それにしても勿体無かったよな…あの先生」 椅子にだらしなく背を預け、シャマルが天井を見ながら呟く。 「俺があんなガキ放っておけばいいって言っても、やっぱりだめとか言っちゃってさ」 「結局逃げられたんじゃないかよ」 「お前が邪魔したからだろ。たく、タイミングが悪いンだよ。空気の読めないやつだよな…」 恨み言を呟くシャマルを睨みながらもう一口コーヒーを啜ると、やはり、故郷の味がした。 文句を言いながらもコーヒーの芳香を楽しんでいるシャマルにも懐かしい味という感慨があるのだろうか。獄寺は疑問に思った。 「邪魔なんてしてねぇよ」 「ったく。いいかんじだったのに、どう責任とってくれんだよ」 「はぁ?責任て何だよ、責任て…」 やっぱりこの男は感傷なんていう繊細さとは無縁だな。獄寺は結論付け、コーヒーを飲み干す。 「ごっそさん」 カップを書類の散らばっている机に置き、丸い椅子をくるりと回転させる。 立ち上がろうとした獄寺の手をシャマルが引き寄せ、椅子が更に半回転して丁度二人は正面から向かい合う。 「何すんだよ」 「まだ、ツナの補修は終わらねぇだろ」 「邪魔なんだろ。だったらどっか別のところで時間潰すからいいんだよ」 「もう十分邪魔されたんだから、これ以上邪魔なんてできないだろ」 呆れたように言うシャマルに、獄寺の頭は混乱する。 「だったら、どうしろって言うんだよ」 「だから、責任。取ってけよ」 カタンとコーヒーカップを机に置くと、シャマルが獄寺を覗き込むように近づく。 唇を寄せる。 触れるだけの、軽いキス。 「……。なっ、何すんだよ」 一瞬惚けていた獄寺だったが、我に返るとシャマルから体を引く。 獄寺はあまりにも慌てた行動にバランスを崩し椅子の向こう側へと落ちる、…寸前でシャマルに引き寄せられた。 「危ないだろ」 シャマルの掠れた囁きが獄寺の耳朶に響く。 「ばっ…いきなり変なコトすんじゃねぇよ」 シャマルの体を引き離さそうと獄寺は腕を押し付けるが、基本的な体格差はいかんともし難くシャマルはビクともしなかった。 「変なコトじゃねぇよ。責任とってくれんだろ」 「勝手なことぬかすんじゃねぇよ」 どけよ、と暴れてみようとするものの体の要所を押さえ込まれてしまい、獄寺は小さく身じろぐことしかできない。 その獄寺を面白そうに眺めながら、シャマルがふぅっと息をふきかける。 「ひっ」 びくりと、獄寺の肩が上がり、遅れてきた不快感に身を震わせる。 「きもいコトすんじゃねぇよ」 強い言葉を吐くものの、その余韻に声は弱々しくなってしまい。 もう一度シャマルに息を吹きかけられると、今度は反射的に背中がぞくりと反り返った。 「や…めろ、よ。ざけ…るな」 「何だよ、隼人。もう声が震えてるじゃねぇか」 シャマルはわざと獄寺の耳の後ろに触れるか触れないかの距離で囁いた。ゆっくりと吐かれる暖かい空気に惑わされてはいけないとでもいうように、獄寺はきゅっと目を閉じる。 「うっせー、よ。だまれ」 上半身はシャマルに押さえ込まれて自由にならない。どこか動かせる箇所はないかと考え、足はやんわりとシャマルに挟まれているだけで、比較的自由なことに獄寺は気づいた。少しだけ足を引き、勢いをつけてシャマルの脛をつま先で蹴る。 「っ痛」 一瞬だけシャマルの力が緩み、その隙を突いて獄寺はシャマルの腕の中から脱出した。 「に、すんだよ。いってーな」 「ふん。自業自得じゃねぇかよ」 シャマルの気配を消そうとするように獄寺は耳の後ろを手で何度も擦りながら、安全な距離へと下がっていく。 「ヘンタイ藪医者」 獄寺の罵声に、シャマルはそれでも余裕しゃくしゃくで「医者ってのは大概ヘンタイなんだよ。知らなかったのか」などど、しれっと飲みかけのコーヒーに手を伸ばす。 「んなこと知ってるわけねぇだろ」 「はいはい。…隼人」 「んだよ」 ドアへと手をかけた獄寺がこれ以上ない位眉を寄せて振り返る。 「どっか行く前に、それ、どうにかした方がいいぞ」 シャマルの視線をたどり、獄寺は顔を真っ赤にする。 「若いっていいねぇ」 「うっせー。ホント、下品な野郎だな」 ガラっと力一杯獄寺は扉を開け、廊下に出るとそれ以上の力で扉を引き戻す。 一度閉まった扉が数度跳ね返ってやっと静かになる。 「本当に、若いっていいねぇ」 シャマルは静まり返った部屋の中、穏やかな表情でコーヒーをすする。 グラウンドからは部活動の爽やかな声が遠く響いてくる。 「上手くねぇな、もう」 シャマルは冷え切ったコーヒーを苦々しく見つめた。 まだ、時間はある。 この平和な日々は、もう少しは続くだろうから。 そう、時間はまだある。 あの子供のことを考えてやる余裕も、今ならば微かに残っているから。 それに、ゲームは始まったばかりだ。 もう一口飲む。 「やっぱ、まずいな」 顔をしかめてコーヒーを飲み干した。 |