◆ Under the Rose ◆ 「ぼっちゃま。隼人ぼっちゃま」 自分を呼ぶ声。 小さい隼人はその声から逃げるように、地面に座り込み膝頭に頭を埋めるように身を縮まらせ、呼吸を止める。 がざがざと庭木に掠る音をさせ、隼人を探しに来た家人たちがすぐ脇を通り過ぎていく。 なんとか今回も逃げ切れたと、隼人は、ほぅ、っと息をついた。 「油断すんのは、まだ早いんじゃねぇの」 隼人の顔よりも低い所、すぐ横の潅木の茂みの向こう側から聞いたことのない男の声がした。 突然の声に、隼人は息を飲み、数秒待った。 耳を凝らして周囲の音に注意する。 微かな呼吸音が聴こえた。 そろそろと体を動かし、四つん這いになって声のした方向へ隼人は向かう。 潅木の間から薔薇園へと顔を出すと、そこには見慣れぬ男が一人仰向けに横たわっていた。 本当に生きているんだろうか…。 先ほどの声は幻かと思うほどぴくりとも動かない男に、そう隼人は思い、木々の間から這い出し、男の傍まで移動した。 そして、注意深く確かめるように男の胸の動きを観察し、呼吸に合わせて上下する生の証をきっちりと見てとり、ほっと表情を緩める。 「何してるの?」 やはり動かない男に、隼人が不思議そうな眼差しを投げかける。 「…寝てんの」 少し考えた後、男がぽつりと答えた。 「寝てる?…でも、おじさん、起きてるよ?」 「おじさんじゃねぇよ。お兄さんだよ」 間髪入れない反論に、隼人は「お兄さんは寝てないよ」と言いなおす。 その言葉に満足したのか、男は少し笑うと、 「そうだな。寝てるってわけじゃなくて…起きれないんだよな」 情けない、とため息をついた。その間も、男は指一本動かすことはなく。 「起きれない…の?どうして?」 隼人が益々不思議そうな顔で男の傍ににじり寄る。 「ったく、質問の多いぼっちゃんだな。自分で考えろよ」 口だけは減らずに、男は言う。 隼人は、そのまま、うーんと眉を寄せて考え込む。 甘やかなオールドローズの馨しいさをのせた初夏の風が、隼人の頬を撫でていく。 隼人は満足そうな顔をみせると 「わかった」 と、真剣な表情になる。 「悪い魔女に魔法をかけられちゃったんでしょ」 まるでその魔女に聞かれたら大変とでもいうように、声をひそめて。 「だったら、僕が魔法を解いてあげる」 男はまっすぐな瞳の少年を見返した。 「目を瞑って」 隼人が真面目な顔で命令する。 男は言われた通りに静かに目を瞑る。 このまま、穏やかな風と薔薇の香りに包まれて、この子供に見守られ続けるのもいいかもしれないと、辛うじて保っていた意識を手放したくなる誘惑に駆られた。 すっ、と意識が沈み込む直前。 男の額にふわりと優しいものが落ち、唇に柔らかい吐息がかかる。 きゅっと柔らかい感触が走り、一瞬で離れていく。 「目を開けて」 少年の声がする。 「王子様のキスで魔女の呪いは解いたから、おじさん、じゃなくて、お兄さんは起きれます」 神妙な表情で隼人は宣言すると、にっこりと微笑んだ。 その言葉に男はゆっくりと目を開けて、 「まいったな」 救いの天使か、と呟いた。 「隼人。ったく、どこ行ったんだよ」 がさがさと潅木をかき分け、広大な庭の一角にある薔薇園にシャマルは入り込む。 薔薇の木に服を引っ掛けないように器用に避けながら、シャマルは薔薇園の奥深くへと入っていく。 持ち主の趣味なのか、様々な種類の薔薇が凛然と咲き誇っている。種類の多さと花の見事さから、この屋敷の持ち主がかなりの情熱を注いでこの植物を育てていることが見て取れた。 久しぶり知人を訪ねにイギリスにきたシャマルに何故か隼人も一緒についてきた。 飛行機に乗る前に追っ払らってもよかったのだが、それもできず、イギリスに着いてもホテルも何も手配していないという隼人を放り出すわけにもいかずに、この屋敷まで連れてきてしまった。そして、話が終わるまで庭でも散歩していろと、放っておいたのがいけなかったのだろうか。だからといって、最後まで面倒を見る筋合いもないわけだが、曖昧なことをした自分にも、もしかしたら責任があるのかもしれない、とシャマルはどうしてだか思ってしまう。 話の間、それは商談も兼ねた性質の話だから隼人が同席できないことは、了解済みだと思っていたのだが、まさか、イギリスの遅い夕方になっても屋敷に戻ってこないとは…。 「行き止まりかよ」 苛立ち紛れに、足で行く手を遮る木の壁を蹴る。 その揺れる木の隙間から、今までとは異なる種類の薔薇が見えた。 シャマルは躊躇せずその木々を広げると、向こう側へと体をなんとか滑り込ませる。 薔薇の芳香が濃密になってくる。 様々な甘さが、フルーツのような甘さ、蜜のような甘さ、ありとあらゆる甘い香りが当たり一面を支配し始める。 その濃密さに比例するかのように、薔薇の形は華奢になり儚さを増していった。 「…オールドローズ、か」 自らの花弁の重さを細い茎で支えきれずに首を落としている淡い朱色の花を手折る。 「っつ」 その可憐さからは想像できない鋭い棘がシャマルの指へと刺さった。 シャマルは指先を凝視し、細く鋭い棘を抜く。 注意深く進んでいくと、薔薇の茂みの間から人の足が見え隠れしている。 「本当に……手間がかかるな」 見慣れたスニーカーにシャマルは苦笑し、近寄る。 「気持ちよさそうに寝やがって」 隼人起きろと、くの字に曲げている体を蹴ろうとして予備動作に入ったが、動きを止める。 「呪いにかかった眠れる姫を起こすのは…」 くすりと笑い、隼人に被さるように屈みこむと、寝息を立てている唇に口付けをした。 軽く触れると、隼人が眉をしかめ覚醒の兆しをみせる。 シャマルはお構いなしに、少し開いている口元から舌を差し込む。 不意の刺激に、隼人の目がぱちりと見開かれ、条件反射的に覆いかぶさっているシャマルを突き離した。 「な…」 半身を起こした隼人に、尻餅をついたシャマルが笑い。 「お前が教えてくれたんだろ」 魔女の魔法を解くのは王子様のキスだって。 そっと、隼人の頬に手を伸ばした。 薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ このようにおびただしい瞼の奥で なにびとの眠りでもないという リルケ 「薔薇 おお 純粋な矛盾」 |