◆ the oath in jest -side G- ◆ 多分、ずっと、憧れていた。 城を出た幼い日から。 否、最初に出会った頃から、ずっと。 獄寺を守るように抱きすくめた腕は、思いの外優しくて、それでいて力強さが伝わってきた。 最初にちゃんと話したのはいつだろうか…。 記憶があるのは母親が死んだ、最初の誕生日。 それ以前も会っているはずだけれど、母親がいた頃の記憶がひどく曖昧で、獄寺自身がよく思い出せないでいるのだ。 それは、無敵の記憶力を誇る獄寺の、ぽっかりと開いた記憶の穴でそれは底知れぬ虚無へと続いているような、怖れを抱かせるものだった。 だから、なるべく触れないように、気をつけて…。 自分を腕に抱えるおそらくつらい体勢を崩すことなく、眠るシャマルの吐息を感じ、この男は女にもこんなに優しくするのだろうと確信を持って考えている自分をとてつもなく不思議に思った。 誰にでも優しくへらへらする分、他人への執着心が薄そうなこの男が、幼い頃の自分と交わした戯言のような約束を覚えているかどうか、無性に尋ねたい衝動にかられる。 そして、尋ねることはなく、その答えを聞くこともないのだということに獄寺は確信をもっていて、確信をもつことで自分のあやふやな感情に蓋をして、思い出を、ただの記憶の残滓として受け止めることができるのだ。 それでも、あの時交わしたあの言葉は、幼い自分にとってひどく意味のあるものだったことも確かなことで…。 自分の記憶力のよさが恨めしく思えてきて。 階下から賑やかな気配が立ち込めてくる。 大きすぎる寝台の上で、何度も寝返りを打つものの隼人は眠ることができないでいた。 パーティーのある日はいつもこうだ。 客たちの醸しだす陰に隠れた賑々しさと、使用人たちの隠しきれない浮かれようが、自分の家なのに、他人の、誰か知らない人の家にいるようなひどく居心地の悪い感じがして、 隼人は苦手だった。 濃厚さを増す、宴の気配に押しつぶされそうで、寝台の中で丸くなる。 それでも、体にまとわりついてくる重さからは逃れることができなくて、隼人はすっくと起き上がると、窓を開け、外へと身を出した。 壁の装飾を慎重に探しながら、懸命に地面へと向う。 途中、危ない箇所もあったが、持ち前の身の軽さでしのいだ。無事に着地した時、その幼い顔には安堵の表情と満足げな笑みが浮かんでいた。 館から離れ、よく手入れのされている庭へと向った。 隼人の部屋側にある庭は、正面にある庭から独立しているプライベートな空間となっていた。そのため、よほどこの家の造りに通じていない限り、めったなことではパーティーの客がやってくるということはなかった。 庭に一歩一歩近づくにつれ、空気が綺麗になっていく。 体に纏わり付いている、重苦しい何かが一枚一枚剥がれていき、体か軽くなってきた隼人は辺りの暗さに構わずずんずんと庭の奥へと入っていく。 と、くすくすという笑い声と低い男の囁き声が聞こえてきた。 シャマルだ。 時折やってくるこの家の主治医。 隼人はそう説明されていて、何回か顔を見たことがあった。 しかし、シャマルが話しかけるのはいつでも姉ばかりだった。 平素の隼人ならばほとんど他人といっていいシャマルの所へ行くことはなかったであろう。しかし、押しつぶされそうな嫌な空気から逃げ出したことによる自由な気持ちと、夜の冒険を成功させた高揚感から隼人は、声のする方へと進んでいく。 仕切りの役を果たしている木の隙間から、向こう側を伺う。 二人の姿が月明かりに浮かび上がり、はっきりと見て取れた。 シャマルは招待客らしい女の人を引き寄せ、二言三言囁くと、彼女にキスをした。 どくん、と隼人の心臓が跳ね上がる。 不意に自分の心臓が締付けられたような気がして、胸に手を当てきゅっと握りしめる。 隼人の視線の先の二人は、固まったかのように動かず、それでいてパーティーの喧騒のようなでも少しだけ違う濃密な空気を醸し出し始めていた。 逃げなきゃ。 不意にそう思い、隼人が動いた瞬間。 「誰だ」 鋭い声。 叱られる、と思ったが、逃げるわけにはいかず、隼人は木の根元の隙間から顔を出す。 きっと怒ってる。 そう思ってシャマルを見上げたが、シャマルの目はどこか笑いを含んだもので。 その思いの外の優しい瞳に、隼人は安心し木の陰から体を引っ張り出すようにシャマルの前に座る。 「あーあ、逃げられたか」 つまらなそうに呟き、シャマルは隼人の目線少し上くらいまでしゃがみこむ。 「で、ぼっちゃん。こんな時間に何してるんだ?」 「……お散歩」 隼人はシャマルの目を見る。 こげ茶色の瞳が、ふわりと笑う。 「お子様は寝る時間だろ」 ぽすんと頭に置かれた手の大きさに隼人はびっくりして。 「シャマルはあの女の人が好きなの」 思ってもいなかった言葉が飛び出す。 「は?」 シャマルがちょっと眉をよせ、「好きっつーか…まぁ、好きなんだろうな」。 苦笑する。 「何でそんなこと聴くんだ?」 「だって、マ」 平素より、家庭教師から子供の言葉を直されている隼人は少し言い淀む。 「母上が、好きな人にはキスしていいんだって…」 どうしてだか、隼人の目から涙が零れ落ちそうになって。 「そうか」 微かに目を細め、シャマルがもう一度隼人の頭をぽんぽんと叩く。 そして、隼人に顔を近づけ。 隼人の小さな額に口付ける。 「好きだよ。隼人」 一瞬、何が起こったのか、隼人には分からなかった。 僅かな温もりが残っている自分の額を掌で包み込むように触る。 母親のくれたキスのような暖かさとは似ているけれども、何か、どこか、違う温もり。 「僕たち結婚しなきゃ」 隼人はきょとんとしたまま、呟いた。 「ん?」 「母上が言ってたんだよ。好きな人と結婚したいって」 隼人はシャマルの瞳を一心に見つめる。 好きな人と結婚したい、とずっと言っていた母親の美しい姿を思い出す。 シャマルが好きって言ってくれて、隼人もシャマルが好きだから。 今までちゃんと話したことはないけれど、ずっとカッコいいと思ってて。 カッコいいだけじゃなくて、本当は優しくて。 大好きになったから。 「そっか…」 シャマルが笑ったので、隼人も笑い返した。 「だったら俺たち結婚するしかないか」 くしゃりと隼人の髪を撫でた、その手の感触。 隼人の幼い記憶に、確りと刻みこまれていった。 バカだよな。 暗がりの中獄寺は思う。 子供相手にあんな約束して。 というより、子供相手だからあんな約束をしたのだろうが。 むしろバカなのは自分かもしれない。 あの約束ともつかない言葉を、シャマルの言った他の言葉と同じように、ずっと憶えていたのだから。 「なーにが、好き、だよ」 男は嫌いなくせして、と獄寺はシャマルの額を指で弾こうとし…顔を顰めた。 その額に掛かっているくせ毛を繊細な動きでどけていく。 眠っているシャマルを起こさないように、体をずらすと獄寺はシャマルの額に唇で触れる。 「…それでも」 言いたいことは言葉にならずに、虚空へと消えていく。 元の位置に戻り、獄寺は目を閉じた。 |