◆ 真冬の幽霊 ◆ 夜の学校にファンタズマが出る、というのは古今東西共通した認識らしい。 コンクリート造りの階段をコツコツと登りながらシャマルは思った。 昼間に溜まった若者たちの情念まで昇華しきれていない感情が、夜の精気と交り合い、そこはかとなく漂っているのだろうか。 確かに出てもおかしくない雰囲気が建物に満ちている。 これから向かう音楽室にも、ファンタズマが出るという噂がここ数日生徒の間で流れているらしい。 神は信じないが、人の執念は割と信じているから、東洋で言われているユウレイはもしかしたらいるのかもしれない、などと科学を信奉する者は非科学に魅かれるという典型のような考えが流れていく。 そんなとりとめのないことを考えていたら、目的地に着いてしまった。 日本に、この学校に来てから、まだ1年も経っていないというのに、完全に校舎の構造を把握してしまい、きっと目を瞑ってでも道を間違えることはなくなっていた。それがいいことなのか、悪いことなのかは分らないが、シャマルの生業、一瞬の迷い、あらゆる意味での迷いが、即、死へと直結するという、味気のない生業にとっては、必要不可欠な能力であることは確かだった。 音楽室。 白いプレートの上の黒い文字が示す部屋表示を確認する。 漢字の意味はあまりよく分らないが、形を認識するのは得意なことが幸いし、日本語の表記にはほとんど困らなくなっていた。 元々、日本語の素養はあったのだ。 彼の不肖の弟子が日本人とのハーフということもあり、母親から貰ったという日本語の絵本を一緒に読んだ、というより、聞かされたことが、数年前、それは彼くらいの年になると、つい去年のようなかんじもするのだが、そんな経験があった。 そのため、任務で日本に来なくてはならなくなった時には、チーナじゃなくてよかった、と思ったものだ。 今日、シャマルが音楽室にやってきたのも、彼の不肖の弟子の呼び出しだった。 獄寺が帰り際に保健室に寄り、これ、と言って一通の白い封筒を置いていったのだ。そして、慌てた様子で彼の敬愛する10代目と友人の元へと行ってしまった。 相変わらずせっかちだ、と思い、手にした封筒を眺めていると、再びドアが開き、ちょこんと獄寺が顔だけ出して、「いいから、絶対に来いよな」と念を押していった。 扉が再び閉まり、シャマルは封筒を開けた。 白いカードに、そっけない文字が踊っていた。 今日の夜8時。音楽室まで来い。 果し状のような雰囲気さえ持つ、そっけなさだった。 呼び出しならばもう少し色気が欲しいところだ、と思ったものだ。 その時の様子を思い出し、シャマルは廊下で一人笑う。 胸のポケットに入れてある、封筒を、白衣の上からそっと押さえつけた。 がさついた、紙の感触が手に残った。 音楽室は、薄暗く、カーテンから差し込む月明かりだけが頼りだった。 暖房も入っていない部屋は寒く、清浄ともいえるような空気が張り詰めていた。 人の気配をかんじ、シャマルが低く声をかける。 「隼人」 「おせぇよ…」 小さな声が、窓際から返ってきた。 そういえば、この部屋に入るのは初めてかもしれない。非常勤であるシャマルには、授業を教えるという以外の教師の役割はなく、保健室に時間とおりいればいいだけなのだ。偶に科学部などからクラブ活動の指導を求められることがあっても、あとは歴史部からイタリアについて訊きたいというリクエストに応える位の課外活動に参加するだけであり、放課後にある学校の見回りという仕事は回ってきたことはなかった。 少しだけ傾斜のついている教室の後ろにある壁には、大音楽家と言われる人物の顔が並んでいる。彼らのうち、一体何人が音楽に乗っ取られて尚、幸せな人生を送ったのだろうか、そんなことは本人にしか計り知れないものだろうが、並んでいる厳めしい顔を見ると考えてしまう。 段々に低くなるよう配置されている、オルガンを兼ねた机。 一番前には大きな黒板、右端には五線譜が刻印されている、教壇と窓際にピアノ。 シャマルは立ち止ったままでいると、「そんなトコに突っ立ってないで、こっちこいよ」と苛立った獄寺の声がした。 やれやれ勝手に呼び出しておいて、とシャマルは肩をすくめながらも、部屋の中に入って行き獄寺の傍までやってくる。 「来たぞ」 窓からは誰もいない校庭があまりにも寒々しく、虚ろに見えた。 「遅い」 「仕事が長引いたンだよ」 舌打ちをして、シャマルを獄寺が見上げた。 何やらひどく緊張をしているような顔をしていた。 「…腹でも痛いのか?」 「ちげーよ」 いいから、そこに座れ、と獄寺がパイプ椅子を指す。 シャマルは素直に腰掛ける。 足を組むと、ギシリと金属が軋む嫌な音が響く。 その反響の仕方に、学校の設備とはいえ流石は音楽室だ、と妙に感心する。 シャマルが椅子に座ったのを確かめると、獄寺はきっ、とシャマルを見つめ、視線を逸らす。 月明かりに照らされた横顔をシャマルは凝視した。 その瞳を隠すように伸びている、さらさらとした感触の髪。 真剣になった時に深い碧になる瞳。 まだ少年の輪郭を残している柔らかな頬。 口を開けば憎らしい事しか言わない艶のある唇。 掴めば壊れそうな細い顎から流れるように連なる白い頸。 「…こっち、見んなよ」 シャマルの視線を感じ、獄寺がぼそりと言う。 はいはい、と肩を竦めて、それでもやはり獄寺の顔を見つめていた。 獄寺は、嫌そうに眉をひそめ、ピアノの椅子を引き、神経質そうに高さを調節する。 調節が終わり、椅子に座ると今度は場所を決めるのに注意を払った。 やっと納まりのいい位置が見つかり、ピアノの蓋を開け、鍵盤に指を置く。 獄寺の背筋が伸びる。 空気が止まる。 シャマルが見つめる中、獄寺は一度肩で息をすると、唾を飲み込んだ。 そして、最初の音を奏で始める。 数フレーズ流れたところで、シャマルの顔が引き締まった。 この曲は…。 確かに、覚えがあった。 覚えがあったどころではなく、とてもよく知っていて、彼の魂に刻まれているような、そんな曲だった。 シャマルがまだ幼い頃、彼はその複雑な民族にふさわしい複雑な環境で育っていた。そして、母親は彼にあらん限りの教育を施し、その中に音楽も含まれていた。あらかたの技術を習得した時に、音楽で大成するには彼は感情的な面で決定的な何かが欠落していることを悟り、医術の道へと進むことにしたのだ。音楽に向かなかった理由である心の欠陥が、医術に関しても同様に作用し、結局は闇医者で殺し屋になるしかなかったのだ、と信じていない神の定めた皮肉を笑うこともあった。 音楽を捨て去る前、最後の時にこの曲を作った。 作ったり理由は忘れてしまい、忘れたいと思いそれに成功した瞬間に、曲は曲としての命を彼の中で失い、ただの音符の連なりだけが残ったのだ。 その音符の連なりを、小さかった獄寺の誕生日にやった。 ただ、一度だけ、獄寺にせがまれてピアノを弾いてやったのだ。 弾いた瞬間、その曲は彼の手を離れ。 多分、どこでもない虚無へと向かっていったのだろう。 最後に一度、弾くことで全てを葬ったのだから。 それが、この曲が。 獄寺へと渡っていたのだろうか。 母親が死んで、泣いていた小さな子供に。 シャマルの葬送の曲が渡っていたのだろうか。 曲は流れていく。 不自然な和音の連なりが、残酷さを秘めて響く。 そろそろ、終わるな。 終焉を想って連ねた音符を思い出す。 獄寺の指がピアノの上を激しく動き、最低な不協和音を響かせた。 終わりだ。 シャマルは肩から力が抜けるのを感じ、柄にもなく緊張していたのか、と自嘲した。 そして、うつむき加減に眼を閉じたまま、最後の姿勢から動かない獄寺を見る。 すると。 獄寺の体がくらりと揺れ、再び音を奏で始めた。 それは奇麗な。 透き通るように麗凛とした低音の響きだった。 時折交る、祈りのような高音が、完璧な調和で曲に溶け込む。 シャマルの陰惨な曲をベースとしながらも、神の愛でた者だけが持つ力によって昇華された、それは将に音の芸術だった。 音楽とは、恐ろしい。 ただの、空気の振動にすぎないくせに。 人の心を虜にする。 組んだ足の上で、手を組み直し、シャマルは目を閉じた。 不完全だった曲が、補完され、生まれ変わった。 捨て去ったものの再生を、喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。 分らない。 だが、この曲を獄寺が受け取ってくれたことに感謝したい気持ちは真実だ。 「…マル。シャマル」 肩を揺さぶられ、シャマルは目を明ける。 眉をきゅっと寄せ不安そうな顔をした獄寺がいた。 「寝ちゃってたのか…?」 心細さげに呟く獄寺の、肩に置かれた手を掴む。 「寝てねぇよ。ちゃんと聴いてた」 「…そっか」 安堵して微笑む獄寺の顔は幼い頃と同じだった。 シャマルが獄寺の手を引っ張る。 崩れるようにすとん、とシャマルの膝の上に獄寺が降ってきた。 「よく、憶えていたな」 シャマルが獄寺の髪を掻きあげ、低く笑った。 くすぐったそうに頭を揺らし、獄寺がシャマルを見つめた。 「…記憶力はすげぇいいんだよ」 月明かりを反射する、獄寺の瞳に映るシャマルの顔。 それが今にも泣き出しそうなことに気づきシャマルは、ちょい、と鼻を掻く。 「それに、……いい曲だから」 掠れた、獄寺の声が耳を打つ。 シャマルは獄寺の髪を握り頭を引き寄せる。 「ありがとう」 吐息が触れ、唇が重なった。 「それで、隼人。……一体急にどうしたよ?」 「は?」 「だから、何で急にピアノ弾いたんだ?」 何故自分がここに呼ばれたのか分らず首を傾げるシャマルに、最大限に、心底嫌そうに獄寺が顔を歪ませた。 「オヤジになると記憶力が悪くなるのか?今日はテメーの誕生日だろ」 ったく、人がどれだけ練習したと…、そうぶつぶつと呟く獄寺の背中に手を廻しながら、シャマルはそういえば今日は誕生日だったな、と思いだした。 「オヤジじゃねぇよ。男盛りっていうんだよ」 「頭、大丈夫か?」 誕生日祝いを貰ったのは、ずいぶんと久しぶりな気がして、シャマルが笑った。 「他にはプレゼントねぇのか?」 「もうねぇよ。離せよ」 「いや、もうちょっと」 「いいから、離せ」 獄寺の言葉に反して、背に廻した腕に力を込め、ぎゅっと抱きしめる。 「お前がプレゼント、っていうのは、なし?」 シャマルの言葉の意味が上手く取れなかったのか、獄寺はきょとんとし、次いで顔を真赤にさせる。 「馬鹿。離せ。発想がオヤジなんだよ」 「じゃぁ、オヤジでいいぜ」 隼人、と彼の名を呼ぶ。 怒った顔のままの獄寺が怒ったまま目を伏せた。 先程よりも、深く、長いキスを。 「あの曲のタイトル、なんていうんだ?」 「なんだと思う?」 「…分らねぇから尋いてんだろ」 「じゃぁ、内緒だ」 「教えろよ」 「教えない。…代わりに前が付けろよ」 あの時、彼の記した曲の題名。 今、この瞬間だけ貴方の夢を見よう。 何を想い、何を感じ、何を泣き、何を嘆き、何に祈り、何に絶望し。 何を夢見たかったのか。 この曲を作った時のことをシャマルは忘れてしまった。 だが、長い時を経てこの曲は再び、特別な命を吹き込まれた。 |