◆ 紫煙 ◆ 俺たちは荒ぶる海を見下ろすようにしてごつごつした崖壁に立っている。 視線のはるか下で、波が岩に当たり、白くとぐろを巻くようにして生まれては消えていく。 その景色を、どこかぼんやりと、俺たち、俺とシャマルは何の感慨もなく見ている。 「ここから、跳べるか」 絶壁に切り立った、崖の中空との境界線ぎりぎり。 ほんの微かな風でも俺たちの体は押し出されて、そのまま、まっ逆さまだろう。 不安定な、実際靴の先っぽは崖から飛び出している、俺たちの立ち位置。 「シャマルは?」 跳ばなくても、落ちてしまいそうな、むしろ、引き込まれてしまいそうな水の渦。 隣にいるシャマルが何を思っているのかなど、全く分からない。 「俺は…」 表情のない声で、シャマルが黙り込む。 跳ばない、のだろうか。 それとも、この男は躊躇いもなく跳ぶのだろうか。 考えれば考えるほど分からなくなり、いっそのこと跳んでみてもいいのかもしれない、むしろ、この男と一緒に跳んで、何かを試したい、そんな誘惑に駆られてくる。 「俺は、やれるぜ」 何を試したいのか。 自分を試すのか。 シャマルを試すのか。 それとも、俺たち以外の誰かを試すのか。 跳ぶなんて、簡単だ。 地面の延長のように歩き出せば、いいだけだ。 いや、それだと跳ぶことにはならないのだろうか。 もっと、勢いをつけて…。 「お前にゃまだ早いよ」 シャマルが俺の背中を捕まえて、コートが皺になるなとか思ったけど、そういう理由じゃなくてシャマルをちょっと見上げると、彼は苦笑していた。 「早いって何だよ」 習い性になっていて、つい反発するように話してしまう。 「跳ぶには、まだ早いんだよ。ぼっちゃん」 その言い方にカチンとくる。シャマルの物言いは時折ひどく俺をカチンとさせるのだ。 いつまでも子供扱いして、という他愛のない反抗心からだと、俺は思う。 「いつかお前にも分かるさ」 片手で俺のコートを捕まえたまま、器用に煙草の箱を取り出して、中身を確認する。 空になったのだろう、その箱をぐしゃりと潰す。 「跳ばなきゃならない時がくるってことが」 ひどく真剣に言ったあと、照れたように笑いながらため息をつく。 シャマルの言おうとしていることが、なんとなく理解できそうで、でも、ちゃんとは理解できなくて。 「訳わかんねぇコト言うなよ」 理解できないことが、悔しくて、そして、埋められない年月の表れのようで少しだけ寂しかった。 「だから、今は分からなくていいんだよ」 ところで隼人、とシャマルが肩を竦めた。 「煙草、持ってねぇか?」 「あ?」 「煙草だよ、煙草。切れたみたいだ」 「ったく」 シャマルの情けないような顔に、何故だが少しほっとして自分のポケットを探る。 箱を取り出す。 中身を確認する。 「最後の1本だ」 煙草の先端を出して、箱をシャマルに差し出す。 シャマルは屈むと、ふわりと空気が動くのが分かった、箱から出ていた煙草を口で咥えた。 「帰るぞ」 くぐもった声で言うと、捕まえていた俺のコートを離す。 その拍子にちょっと足をぐらつき、そこにあった石が音もなく落ちていき、海へと消えた。 「危ねぇだろ…」 バランスをとり、背中を向けているシャマルの側へと寄った。 海風が少し和らぐ。 シャマルは背中を丸めて、煙草に火をつけようとしていた。だが、ジッポに点った火は、すぐに強い風に吹かれて消えてしまう。 「しょうがねぇな」 俺が手をかざす。 ジュッ、という音を立てジッポに点いた火が煙草へと移った。 「グラッチェ」 「風向きを計算すれば、こんなのちょろいぜ」 にやりと笑ったシャマルが、俺の肩に手を置いた。 「お前もでかくなったなぁ」 ぽんぽんと、何度か肩を叩く。 旨そうに煙草をくゆらせるシャマルを見る。 不思議と、嫌な感じはしなかった。 「ていうか、それ最後の1本なんだぞ。俺にも寄こせよ」 「無理だな」 方眉を上げて、不敵に笑う。 やっぱり、嫌なヤツだ、と思い、シャマルから煙草を奪おうとした。 しかし、シャマルは口から取った煙草を手を伸ばして高く掲げた。 俺も手を伸ばしてみるものの、届くわけはない。 ジャンプをすれば届くかもしれないが…それではまるきり子供じゃないか。 顔を顰めて諦めるしかない。 「隼人」 ちらりとシャマルに目を遣ると、顎を上げ上向き加減で煙草を吸った。 俺に視線を流す。 俺は顔を背けた。 肩に添えられていた手が俺を引き寄せ、顎を掴まれる。そっと上を向かされると、シャマルの顔が近寄ってきた。 あれ、と思う間もなく、唇が重なった。 唇を開かされる。 とろりとした煙が、俺の中へと入り込んできた。 「っ、……シャ、っマル!」 ケホケホと咽てしまう。 目から涙まで出てきた。 「んだよ。煙を分けてやったんだろ」 しれっと言う、シャマルを睨みつける。 何度か息をして、煙を体の外へと追い出した。 「大げさだな」 「だって」 「だって、じゃねぇだろ。あー、さっきの撤回。やっぱ、お前、まだ大きくなってねぇや」 俺の視線も気にせず、また、旨そうに煙草をくゆらせる。 「さて、寒くなってきたし。帰るぞ」 俺の肩を抱いたまま、シャマルが歩き出した。 確かに、吹き付ける風は冷たく、シャマルの指先もきっと冷たいに違いない。 触れた唇の暖かさ。 それを確かめたくなって、俺はシャマルにキスをした。 煙草の匂いがしたキスだった。 |