◆ each piece of memory ◆ 「隼人、これからお前とビアンキの主治医になって下さるシャマル先生だ。ご挨拶しなさい」 厳格な父親に萎縮するように、その少年は硬い表情でシャマルを見上げた。 その眼差しには、子供らしい、と大人の考える好奇心や無邪気さがなく、ただただ緊張感に溢れているだけだった。 自分がこの少年ともいえない子供にとって、かなり大人に、しかも恐そうな大人に映っていることだろう、と思うとシャマルは苦笑を禁じえなかった。 「よろしくな」 子供の目線まで屈むと、にこりと笑って見せた。 シャマルの精一杯の愛想に、その子供は更に表情を固まらせ、緑色の瞳でじっと見つめていただけだった。 可愛くない子供だ。 それがシャマルの獄寺隼人に対する第一印象だった。 初めてシャマルに会ったときのことを、獄寺隼人の無敵の記憶力はこう語る。 父親に、これから城の主治医になる男だと紹介された。 まず、意外と若かった、とはいえ子供の隼人の基準からすると十分におじさんだったが、ひげもじゃか禿の老人でなかったことに、驚いた。 そして、シャマルと紹介されたその医者は隼人の目線まで屈むとにこりと笑い、「よろしく」と挨拶をしたのだ。 大人というのは、子供だと思って頭を撫でてきたり、抱きしめて頬にキスをしたり、そこまでではなくても握手をしてきたりするのばかりだと思っていた隼人にとって、ただ目線を合わせて言葉の挨拶だけをしてきたことにも驚いたのだ。 変な大人だ。 それが獄寺隼人のシャマルに対する第一印象だった。 シャマルは女の子が好きだった。 可愛い女の子ではなく、女の子が好きなのだ。むしろ、女の子はみんな可愛いと信じて疑ってなかった。 自分でも女好きが度を越しているようにも思えるが、女好きと思わせていた方が、突出した特徴が一つでもある方が、その人物に性格付けをできることにより人というものは相手に対して既知であるということで、安心をするものだ、ということをシャマルは学んでいた。だから、自分は女好きの医者を演じなければならないし、それは決して嘘ではないので、それほどの苦痛はなかった。 そのため、シャマルが屋敷で話すのも女の子に限られていたし、姉弟についても専ら姉であるビアンキとばかり話して、ビアンキからすればちょっかいをかけて、いたのだ。 自然、弟である隼人と接する機会はなく、あったとしてもビアンキと遊んでいる時に偶々隼人がいる、という程度のものであった。 だから、隼人と二人きりで話しをすることになったのは、本当に偶然の出来事だったのだ。 隼人は一人でいるのが好きだった。 大勢の人間に囲まれているよりも、一人でいる方が楽だったのだ。隼人にとって周りの人間は姉を抜かせば大人ばかりで気づまりだった。大人と対峙すると、彼らにとって子供という珍獣扱いをされてしまい、そのことに慣れることはなかったのだ。 そういう意味では、子供の子供であるというだけでちやほやされる特権を、ただの苦痛の種としか思えない、可愛くない子供だったのだろう。 だから、主治医になったシャマルとも二人きりで何かをするということもなかった。 大体、主治医とはいえ、シャマルは診察らしい診察をすることもなかったし、風邪をひいたくらいでは、「子供は大人しく寝ていろ」というだけで、治療らしい治療もしなかったのだ。子供の頃は気づかなかったが、その代わり、ちゃんと熱が下がるまで面倒をみていてくれた、と思う。 風邪をひいて寝ている時くらいしか、シャマルと二人きりになることはなかったし、シャマルと一緒にいる風景には、常に姉がいたように思うのだ。むしろ、隼人は姉に連れられるようにしてしか、大人と会ったり話したりすることはなかった。 だから、隼人が病気でもなくシャマルと二人きりになることは滅多になく、姉がいないところで話すようになったのは、ほんの偶然からだった。 大きな屋敷だ。 そう思いながら、屋敷の中をシャマルは徘徊していた。 家の間取りを確かめ、それを頭にたたき込む。意識しなくても、習い性のようになっている行動だった。いつ、いかなる時に追手がきてもいいように、生き延びるためには、万全の準備をしておかなければならない。いつでも幸運の女神が微笑みかえるとは限らないのだから。 それよりも、女神にさえも追いかけられてしまいそうな、自分の乱行を思い、女神も女のうちだから、追いかけられるのもいいかもしれない、と屋敷の中を歩きながら一人笑う。 屋敷の中心にある部屋から、そこはとても日当たりがよく、屋敷の中でも居心地のよい部屋であった、微かな音が聞こえてきた。 締め切られた厚い扉から漏れ聞こえてくる、微かなピアノの旋律だった。 誰が、弾いているのだろうか? シャマルは扉の前で立ち止まり、密やかな旋律に耳を傾ける。 広い家だ、と思ったことはなかった。 隼人にとって家はこの建物だけであり、比較するための対象を知らないのだから広いとも狭いとも思わないのは、当然のことなのだ。 以前、母親が生きていた頃に訪れた彼女の部屋は、多分この家の一部屋、隼人の部屋よりも狭かった。 だけど、狭いあの部屋の方が隼人は好きだった。 それでも、隼人にとっての家というものはこの屋敷しかなく、それなりにお気に入りの場所というのもあるのだった。 今はそのお気に入りの場所である、屋敷の中で一番日当たりが良くてぽかぽかとしている部屋でピアノを弾いているのだ。 強制されて、知らない人の前でピアノを弾くことは、とてつもない苦痛であったが、自分が好きなように自分のために、自分の好きな人たちのためにピアノを弾くのは嬉しいことなのだ。 だから、時折、隼人は、誰もいないことを確かめてこの部屋でピアノを弾いているのだ。 日が陰り始め、シャマルの足元に冷気が忍び込みだしてくる。 石造りの建物は保温性に優れているが、それでも太陽の力というのは大きいものだと感心せずにいられない。 曲が終わったようだ。 とても、いい演奏だった。 技巧もそこそこあり、弾く者の気持ちが美しいまでに映し出された、いい演奏だ。 次の曲を弾くのかと、シャマルは少し立ち止まっていたが、その気配もない。 逆に、部屋の中を片付けているような気配さえ感じるのだ。 殺し屋になって歴の浅いシャマルであるが、相手の気配を感じて行動を察する術は身に付けていた。逆にいえば、相手の気配を感じられてない愚鈍な者は、殺し屋という職業と最も縁遠いといえないこともない。 シャマルは、足音を消して、固く閉ざされた扉の前から立ち去った。 いつの間にか、窓から差し込む光が薄れていた。 曲を弾き終えると、隼人は微かな肌寒さを覚え、小さな身を震わせる。 今日は、気持ちよくピアノを弾けた。 それはとても珍しいことだったし、嬉しいことだった。 満足してピアノの蓋を閉める。 少しだけ惜しい気がしたが、誰かがこの部屋に来ないとも限らないのだ。 隼人は足の届かない椅子から飛び降りる。 上手く着地して、たいした高さではないものの、なんとなく気持ちがはしゃいだ。 やはりこのまま、部屋を出てしまうのが名残り惜しく、もう一度、今度は窓を向いて椅子に腰かける。 自然に任せた庭が、綺麗な茜色に染まっていた。 あの演奏の主は誰だろう。 ひどく上手いのに、どこか稚拙で、しかしながら心に響く音色だった。 かつて、自分があの楽器と対峙していた頃…。 思い出そうとする脳内の働きを、シャマルは拒絶する。 今さら思い出しても仕方がないのだ。 他の選択肢がなかったわけでもないのに、今の、殺し屋という職業を選んだのは自分なのだから。仕方がなく、ではなく、自分の意思で選んだのだから。 この屋敷には、まだ滞在する予定だ。 そのうち、あの音色を奏でた相手とも会うことができるだろう。 その時を楽しみに、子供相手にゆっくりするのも悪くない。 今日は、誰のためにピアノを弾いたのだろうか。 隼人は庭を見ながら母親の顔を思い出す。 そして、姉の顔を。 少し経ってから、父親の厳めしい顔も浮かんできた。 もう一人、誰かいそうな気がして、心がもやもやとして、隼人は眉間に皺を寄せ難しい顔を作る。 思い浮かばなくて、目をつむる。 もやもやとした所から、最近屋敷にやってきたお医者の顔が浮かんだ。 ぱちりと目を開き、隼人の顔が自然と笑う。 今度あのお医者にも聞かせてあげてもいいな。 人前でピアノを弾くのは嫌だけど、何故だか新しいお医者は隼人の嫌がることをしなさそうだと思うのだ。 そうしよう、それがいい。 隼人は暮れなずむ景色を、足をぶらぶらさせながらにこにこと眺めていた。 |