◆ 歪んだ世界と太陽との関係 ◆ 暑い…。 じりじりと照りつける太陽を見た。 ひんやりとしたものが顔に触れた。 気持ちいい…。 覚醒間際の意識が漂ったまま、感覚だけを察知した。 「――と」 遠くから声が聞こえてくる。 ああ、もう朝だから起きなくてはならないな、とぼんやりした頭で考えて、薄っすら目を開けた。 定まらない視線が捕らえたものは…寝起きに見るには、嫌なような嬉しいような悔しいような安心するような捉えどころのない感情を起こさせる、獄寺を軽い混乱に陥れる顔だった。 「気づいたか、隼人」 シャマルの顔がぼんやり見える。 …朝なのだろうか? 周りを視線だけで見回し、時計を確認する。確認しようとしたが、いつもの場所に時計はなかった。仕方なく、視線を彷徨わせ時計を探した。見慣れた、部屋。きれいというよりも、余分なものがない、部屋だ。 そうか、ここは、シャマルの部屋なのだ。 「?」 シャマルを見た。視界が何時まで経ってもクリアにならない。頭の芯も、浮いたような感覚があり、確りとしない。 「もう少し、寝てろ」 シャマルが笑い、掌が顔に触れた。 冷やりとした感触が、気持ちいい…。 ふわふわとした意識が、曖昧になり、消えていった。 起きた時に、ヘンな夢を見た、と思った。 だが、上半身だけで起き上がり、その姿勢を維持する体力がなく、また布団へと寝そべってしまった獄寺は、今度はちゃんと覚醒した頭で状況を把握しようとした。 夢だと思ったことは、やはり、夢ではなかったようだ。 今自分はシャマルの部屋に、彼のベッドにいるらしかった。 辺りは、シンとしている。 ベッドルームの向こうからも物音は聞こえなかった。 カーテン越しに外が薄明るいのが分かる。 今、何時なのだろうか…。 時計を探そうとして、断念した。この部屋には時計がないことを思い出した。寝室に時計を置くのは無粋だという、家主の主張だ。医者の癖に合理的ではない男なのだ。 仕方がなく、獄寺は体に気合いをいれ、起き上がる。 ベッドから抜け出し、よろよろと立ってみると不思議なことに気づいた。 自分はまだ、制服を着ているのだ。 ズボンのベルトは抜かれ、ホックは外されているものの、それ以外は朝家を出た時と、寝乱れていることを除けば、違わない服装だった。腕時計もそのままか、と思い、手を見ると、腕時計も、気に入っているアクセサリーもそこにはなかった。 身につけていない代わりに、ベッドの横にあるチェストの上にあった。丁寧に並べられていた。 チェストの上の腕時計を手に取り、ベッドに座る。 そのまま仰向けになって、寝ころび、布団の中に戻って行った。 腕時計は、6時過ぎを指していた。 とにかく。この不可解な状況のことを考えられなかった。 頭の中がぐるぐると回り、体が言うことをきかないのだから。 なんか、やばいな。 しかし、最前と違い、今度はなかなか眠りが訪れなかった。 ベッドの中で、無意味に寝返りを打つ。それに飽きて、起きようとしても、またすぐに体は重力に従って、ベッドに戻ってしまう。 自覚がなかったが、多分、体調が悪いのだ。 そういえば、と、今更間の抜けた話だが、今日は学校に行ったはずなのだ。 夏休みの初めに、補修を受けなければならない、という10代目のお供として。本当は野球バカも補修を受けると知り、自分だけ仲間外れにされた気持ちになって無理やり受けなくてもいい補修を受けに行ったのだった。 朝、一緒に学校に行って、教室に入って、授業を受けて、とても退屈だったが10代目と一緒の教室にいるということだけが獄寺の関心ごとなので授業の質自体は問題ではない、お昼御飯を食べて、その後、グランドに行ってサッカーをするという野球バカの言葉に退屈な授業にお疲れになった10代目が、10代目を疲れさせたということだけでつまらない授業を憎むに足るのだが、その10代目が珍しくサッカーをおやりになると言って、俺も行きますと一緒に外に出て、暑いなと思って空を見上げて、そして…、そして……。 そして、夢の中みたいな気持ちでシャマルの言葉を聞いて、寝て、起きて、今ここにいるのだ。 外に出て、この部屋にいる。 その間の行動に全く覚えがなかった。 多分、倒れたのだろう。 そう、結論付けたものの、ぼんやりした頭の中はぐるぐると色々なことが渦巻いてしまっている。 静かにドアが開いた。 夏用の薄いブランケットの中でまるまっていた獄寺は人の気配を感じた。 ベッドの淵に重さがかかった。小さく、チェストに何かを置いた音がした。 「…隼人」 小さく、名前を呼ばれた。 どうしてか、心臓がずきんとして体が動かなくなる。 仕方がないから、寝た振りをすることにした。慌ててぎゅっと目を閉じた獄寺の髪へと、シャマルの手が伸びた。 「腹減ってないか?」 問われて初めて、獄寺は自分が今日一日何も食べていないことに気づいた。朝食は時間がなくて抜かしてしまい、昼も空腹を感じなかったのでジュースだけで済ませてしまったのだった。 そして、チェストから流れてくる、食べ物の匂い。 空腹なのだろうか。少しだけ空腹を感じているような気もする。だが、別段何かを食べたいとは思わなかった。 それに、今の獄寺は寝たふりをしているのだ。そう易々と返答ができるわけはない。 体をもぞもぞと動かし、寝ぼけているふりをした。 「隼人」 くすりとシャマルが笑い、獄寺の頬に手を宛がった。 唇に感じる、柔らかな感触。それが、湿ったものに変わり獄寺の唇を押し開けていく。 少し煙草の匂いとコーヒーの味がした。 ゆっくりと上唇の裏側を撫でていくシャマルの舌に、獄寺はぎゅっと目を瞑った。シャマルは舌先で歯茎に触れ、歯の隙間から獄寺の舌へと触れた。 反射的に舌を引っ込めてしまった。だが、それでもシャマルは奥まで獄寺を追ってくる。 絡め捕われてしまう。 「――っん」 息を呑み込んでしまった。 当然の如く、息が苦しくなって口を開いた。その間隙を縫いシャマルが深く食らいつくように唇を重ねてきた。 獄寺の頭がベッドへと押し付けられる。 口内を蹂躙しようとするシャマルを、体を手で押し返すようにして跳ね退けた。 至近距離でシャマルが笑い、獄寺から顔を離した。 「やっぱ、起きてるじゃねぇか」 意地悪そうに、楽しそうに、そしてもう少し別の感情を乗せながら細めた目で獄寺を見つめる。 手の甲で唇を拭きながら、獄寺はぷいとそっぽを向いた。 「気分どうだ?」 獄寺の顔を覗き込んだまま、シャマルが髪を撫でた。 「……良くはない」 「そうか。で、腹は減ってるのか?」 「…よく、分らない」 「ふむ。――とにかく、これ食って寝てろ」 「――ん」 そっぽを向いたまま頷くと、シャマルが獄寺を抱きかかえるように起き上がらせた。 自分よりも大きく、遙かに逞しいシャマルの感触に、獄寺は安心し、やはり心細さも感じてしまうのだ。 もう一度、獄寺の髪を撫で、シャマルは少し腰を浮かし、チェストから皿を取る。その拍子にベッドが膨らみを取り戻し、微かに獄寺の体が浮いた。 「ほら、食え」 フラットなソーサー代わりの食器の上に置かれたやや深めの皿には、リゾットとスープの中間のようなものが盛られていた。漂う食べ物の匂いを、美味しそうだ、と僅かに感じる。添えられているスプーンで一匙掬う。 ベッドの縁に座りなおしたシャマルが首を捻り、獄寺を見つめている。 その真剣な様子を獄寺は面映ゆく感じ、眉を顰め、それでもスプーンを口へと運んだ。 獄寺の喉が上下し、食事を嚥下するのを見届けたシャマルが「上手いか?」と訊く。ご奥寺は曖昧に頷き、実際体調の悪いらしい自分でも美味しいと感じたのだが、皿を空にさせることに専念した。 その様子に、安堵したように笑ったシャマルが片足をベッドの上に乗せ、獄寺の方を体ごと向いた。 「隼人、お前、ちゃんと食事してるのか?」 「――あんま、してない」 憮然とした顔で獄寺がもそもそと言った。 「たく、しょうがねぇな」 苦笑したシャマルが空になった食器を受取り、空いている手で獄寺の髪を撫でた。 目を細めた獄寺が、「なぁ」とシャマルを見上げた。 「俺さ…倒れたのかな」 心細げにシャマルを見つめた。 「ああ。運動場で突然、な」 獄寺は口を結び、黙り込んでしまった。 元来、暑さに弱い質なのだ。それを気力で補おうとして、無理がきた、というのが今日の出来事の真相なのだろう、と考えていたのだが、その考えが的中してしまったことに、悔しさと苛立ちを覚えるのだ。 「今日は暑かったからな」 宥めるように獄寺の背中に触れた。獄寺の瞳がシャマルの瞳と交差する。その瞳が微かに熱っぽかった。獄寺は熱っぽさを隠すように、目を伏せた。 「でも、何で…お前ンちにいるんだ?」 「俺が運んできたからな」 当然のように答えたシャマルに、「そうじゃなくて」と獄寺は怒ったような顔をした。 「何で俺ンちじゃないんだよ」 「だって、お前、うちのベッドのが好きだろ?」 さらりと、事もなげに言われた言葉に、獄寺の体温は急激に上がり、頭がくらくらとしてきた。 「なっ…違っ…」 「隼人。何、赤くなってンだよ。こっちのが広くてスプリングもいいってことだよ」 くつくつと可笑しそうに顔を綻ばせる。 「さて。こいつを片づけてくるから、お前は寝てろ。医者の命令だ」 ベッドから立ち上がったシャマルが、笑いながら、しかし真剣な目で獄寺を見た。 「―――偉そうに」 そう、反発した獄寺に、 「ん? 一緒に寝て欲しいのか?」 と、シャマルが体を近付ける。 「いらねぇよ」 獄寺は慌ててベッドに潜りこみ、シャマルへと背を向けた。 「いいから、ちゃんと寝ろよ」 ひどく優しげなシャマルの声が上から降ってくる。 獄寺は、シャマルの気配が消えていくのを背中で感じながら、目を瞑った。 |