◆ 青年と海 ◆ 貴方の人生は幸福か、と問われたら、少しだけ考える振りをして、“Si.”と答えるのだろう。 しかし、そんな問いかけをシャマルにする者は今までいなかったし、これからも現れることはないだろう。 煙草を燻らせ、蒸留酒を舐め、冬の海を眺める。 最高の人生ではないかもしれないが、今、この時は、確実に最良の一瞬であろう。 彼の勤務する学校には、今日も生徒たちが、ある者は楽しそうに、ある者は退屈そうに、年齢特有の躁状態で、学び遊んでいるのだろう。 ふと、そんなことを考え、そんなことを考えた自分に驚いた。 昔、ほんの数か月前のことなにひどく昔に感じるのだが、彼がまだ殺伐とした暗殺の日々を送っていた頃には、シャマルの世界は自分と仕事の依頼主、哀れな、その人物がどんな経歴の持ち主であれ暗殺されるということは哀れであるとシャマルは考えていた、被害者の三者で構成されていた。それ以外の余分な要素は、彼の生活において、あまり重きをなしていなかった。 数々の情事も、数少ない友人と呼んでもいいような人間も。 それをまさか、何のかかわりもない、無個性な生徒という群衆のことをシャマルが、最良の時間に思い出し、……懐かしむとは。 人生とは驚きの連続だ、と誰かが言っていたな、と目を細める。 吐き出した煙が、冷たい風に攫われ消えていく。 シャマルは煙草を空になったグラスへ入れた。 少し体を動かし、座り方を変えると、椅子がぎしりと音を立てる。朽ちようとしている物質の悲鳴のような音だ。 茫洋とした視線で、鈍色の海を、その先を眺める。 頬を撫でる冷たい風。 誰もいない砂浜。 遠くに浮かぶ船影。 全てが完璧だ。 完璧な静寂の中の完璧な孤独。 かつてシャマルは仕事が終わり、その反動のような漁色期間が終わると、一人でよく海に来たものだった。 寂しく美しい海へと。 大陸の誘惑するような海の色と違い、この国の海は人を拒絶している、とシャマルは思った。冬という季節も関係しているのかもしれない。だが、島である国の来る者を拒み、出る者を拒む、それでも来ることを夢見、出ることを望む、矛盾を内包する閉鎖性があるのではないのだろうか。 リアリストの中に潜むロマンティシズムに身を委ね、意識を拡散させていった。 「おい」 ああ、体が揺れている、とシャマルは知覚した。 「おい、シャマル」 うっすらと目を開ける。 「んなトコで寝るんじゃねぇよ」 口が悪い、と思いながら苦笑し、ずり落ちていた体を元に戻した。 「ったく」 シャマルは苦笑して、寒そうに立っている少年へと視線を向けた。 「隼人、学校はどうしたんだ?」 「うるせぇよ」 肩を竦め、手を防寒着のポケットに入れ、寒さで頬を赤くしている少年を見つめる。 ここにはシャマルの座っている朽ちそうな椅子以外、人の座るべきものがないのだ。シャマルは獄寺を見上げる。 「どうしたんだ?」 「は?」 怒ったような返答で、獄寺がそっぽを向いた。 翠色の視線の先には赤く、光の最後の残滓に照らされている海が、あった。 「――これ」 ポケットの中から獄寺がくしゃくしゃになった葉書を取り出した。 「あ、ああ」 それは、シャマルがこの海へ来て数日経った頃、気まぐれに書いた葉書だった。 「大人の癖に、心配かけんさせんじゃねぇよ」 怒っているのか照れているのか判断のつかない早口で、獄寺が言った。 シャマルはじっとふっくらとした獄寺の頬を見つめた。 風が獄寺の髪を流し、彼は体を震わせた。 寒いのだろう。 実際、足元から忍び寄る冷気にシャマルも肌寒さを感じているのだ。 「なぁ、隼人」 シャマルは立ち上がり、黙って海を見つる獄寺へと手を伸ばす。 防寒着の袖口を掴む。 獄寺は身じろぎせず、唇を切り結んでいる。多分、そうしていないと、歯が震えてしまうのだろう。 シャマルは微笑み、後ろから獄寺を抱き締めた。 「俺が死ぬとでも思ったか?」 耳元で囁く。白い吐息が闇に消える。 シャマルの体に包まれた獄寺が深呼吸をするのを感じた。 「……」 「隼人?」 「生きてて、期待はずれだったぜ。放せよ」 一息で言い、獄寺がじたばたと暴れた。 「やだね」 シャマルは笑いながら、ぎゅっと獄寺を抱きしめた。 「なぁ。……帰ろうぜ」 「――ああ」 日が暮れようとしている。 |