◆ 蕩けるような甘さと底に隠れた微かな苦味 ◆ 恥ずかしげもなく大輪の花束を抱えた男は、人待ち顔をしないまま悠然と、すでに一時間ほど人を待っていた。 花束を持った男を認め、女が、これまた悠然と歩みより、女は男の傍に立つと、「待たせて悪かった」とも詫びもせず、平然と優雅に微笑みかけた。 男は二十代後半らしく、若かった。女は男よりも年上であるらしい。らしい、というのは、女のよく手入れされている体や華やかな服装は正確な年齢を判別させることを困難にしていた。 だが、落ち対払った物腰や、人に傅かれることに慣れ切っている様子を見れば、この女が見た目以上に年齢を重ねていることは分かるだろう。ただ、三十代なのか、それとも五十代なのかが分らないのである。 「マダーマ」 男が呼びかけ、差し出した花束を女は無造作ともいえる優雅さで受け取った。 綺麗に整えられた顔を花束へと近づけ、芳香を吸い込んだ。 「バラね。素敵だわ」 抑揚のあまりない口調で言い、女は男に完璧な微笑みを向けた。 そして、童女のようにあどけなく首をかしげる。 「貴方には、先約がくぁるようね」 男の背後へと微笑みを投げかけ、「よい、バレンタインを」と女は立ち去ってしまった。 残された男は、何が起こったのか理解できず、眉を顰め、後ろを振り返った。 男の濃茶色の瞳に映ったのは……。 少年は、運ばれてきたばかりのビチェリンへと息を吹きかけ冷ましている。 少年の向いに座った男は、片肘を付き頬を支えるようにして、先ほどまでの颯爽とした様が嘘のようにだらしなく座っていた。 「なぁ、ぼっちゃん」 声と共に溜息が漏れる。 少年はちらりと視線を上げ、泣きそうなのか怒っているのか分らない複雑な表情で男を見つめた。 男は、もう一度深くため息をついた。 全く、不覚だ。 女を待っている間、この少年は男の近くに居たに違いないのだ。 いや、おそらく男が少年の屋敷から出てきた時から、後を付けていたのかもしれない。滅多に屋敷の外に出ることのない少年だが、男はこの少年に瞬間的な激情に駆られるような行動力があることを知っていた。 少年に途中で気づき彼を屋敷に返していていれば、今頃は彼女と食事でもしていた頃だと思うと、出てくるのは溜息しかない。 だが、一流の殺し屋である自分に気づかれなかったというのは、この少年は見所があるのではなかろうか。 カップ一杯のビチェリンを口に含み、未だ熱かったのだろうか、顔を顰めた少年を見遣る。 見所があるからといって、男が少年に何かをしてやれるわけではない。 少年と男の関係は、今はお屋敷の令息と雇われ医師にすぎないのだから。 顔を顰めた少年は、それでもカップの中身を、今度は慎重に口に含んだ。 瞬間、顔が幸せそうに輝いた。 「美味いか?」 何気なく、問いかけた男に、少年は戸惑ったように間をあけた。 そして、小さく、こくりと頷く。 男は苦笑して、少年の手からカップを奪い、一口飲んだ。 「甘すぎだ」 顔を顰めた男を見て、少年が嬉しそうな笑い声を立てた。 今年のバレンタインデーは土曜日だった。 そのため、昨日の金曜はひどい目に合った、と獄寺は苦虫を噛み潰したような顔で敬愛する10代目の家からの帰路を歩く。 と、目の前から恥ずかしげもなく大きな花束を抱えた男が飄々と歩いてきた。 獄寺はひどく嫌そうな顔をし、立ち止まった。 男も獄寺を認め、だが歩調を乱すことなく歩いてくる。 「よぉ、隼人」 獄寺の目の前で男は立ち止まり、不敵に笑った。 「お前もデートか?」 獄寺は軽口を叩くシャマルを無言で睨みつける。胸がむかむかした。 この男は、自称女好きなことだけあり、昔から身持ちが軽すぎるのだ。 少年特有の潔癖さ故、獄寺はそんなシャマルの行動を許容することができないでいた。 だが、許容できない理由は果たしてそれだけなのだろうか。そのような疑問が獄寺の胸の裡に湧くには、この美しい少年は苛烈なまでに清廉であり、穢れない性情をしていた。出自の複雑さに反比例するかのような、否、むしろその複雑さを厭うが故の激しいほどに清らかな少年の性格を知りながら、シャマルはわざと怠惰な自分を強調すかのように獄寺の前に姿を現すのだった。 獄寺はシャマルを睨み、そっぽを向きながら「ちげぇよ」とその脇を通り抜けようとした。 「隼人」 シャマルが名前を呼んだ。 優しいとも取れるような、声音だった。 「……んだよ?」 小さな声で反抗しながら、さも面倒だといわんばかりに獄寺が振り返った。 「今日は、俺のデートを邪魔しないんだな」 シャマルはくつくつと笑う。 獄寺は頬を膨らませるようなあからさまな表情でむくれた。 「っるせーよ」 早足で獄寺は立ち去ろうとした。 後姿に向い、シャマルが叫んだ。 「隼人。夜、部屋に来いよ。美味いビチェリンを飲ましてやるから」 その言葉に獄寺が振り返った時には、シャマルは片手を上げ獄寺と反対方向へと歩き始めていた。 獄寺は、少し肩を丸めたように歩くシャマルの後姿を見つめる。 「夜って何時だよ……ったく」 そう毒づきながらも、微かに軽くなった足取りで帰路を急いだ。 |