◆夜にたゆたう甘い香り◆ おや、という風にジーノは歩を止めた。 それにつられ、椿も半歩だけ進み歩みを止めた。 何かしてしまったのだろうか、と少しだけドキドキしながら椿はジーノへとか体を向けた。 椿の不審そうな顔をじっと見つめ、ジーノは椿に抱きついた。 そして、わたわたしている椿にお構いなく、その首筋に顔を埋めた。 ジーノはそのまま、じっとしていた。 仕方なく、というよりも、この状況をどうしていいのか分らず椿もじっとしていた。否、硬直していたのだった。 椿の首筋をジーノの吐息がくすぐる。 自分に体を預けるジーノの背中を抱きしめるべきか椿は迷う。 迷って、そろりと腕を動かした。 ガサリ、とコンビニの袋が音を立てる。大通りから一本入っただけで、車の音も静かになるこの道で、予想以上の大きさで人工灯が微かに照らす薄闇へと響いた。 耳触りの悪い音に、椿自身が驚いてしまい、動きを止める。 そして、ジーノもその音が合図であったかのように、椿から体を離した。 「違った、みたいだね」 歌うかのようにさらりと言い、残念そうに肩を竦めた。 「あの」 「ん?」 未だ、ジーノへ何かを言う時、椿は緊張してしまう。そんな自分を少し情けなく思うのだが……。 「バッキー、何だい?」 ちょっと小首を傾げたジーノに、椿は視線を合わせる。 ジーノの視線がふっと和らいだ。 「あの、な……何が、違ったんですか」 静かに言ったつもりなのに、椿の声は緊張のあまり上擦って、声音はまるで練習をしている時のように硬質になってしまう。 言葉一つ、満足に言えない自分にがっかりしてしまう。 思わず視線をジーノから逸らしてしまった。 「ん?どうしたんだい、バッキー?」 「いえ……」 ちらりと視線を上げると、ジーノは微笑み、椿を見つめていた。 「あの、それでっ」 問いかけと続けようとする椿の唇にジーノの中指が軽く触れた。 「ねぇ、何だかとてもいい匂いがするんだけど」 ふわり、と笑うジーノに椿は見とれた。 「何の匂いだろうね?」 椿は眉を顰め、辺りに漂う匂いを吸い込む。 甘い、美しい香りが鼻腔を擽った。 「あっ」 その正体に思い当たる。 彼がまだ実家にいた頃、あの田舎の道を歩いていた頃。 この匂いは冬の冷たい空気に柔らかさを与え、春が来ることの兆しのように感じていた。 ただ、あの頃よりも、今、この時感じる香りの方が、より深く、濃く、妖艶さすら感じるように思うのは……。 「これ、沈丁花です」 「ジンチョウゲ?」 呪文を唱えるかのような口調で、ジーノは呟いた。 椿は辺りをきょろきょろと見回した。だが、匂いの源は見当たらない。 「すみません」 素早くジーノに謝罪をし、椿は来た道へと踵を返した。 家と家の間、小さな路地をのぞき込む。 「王子」 椿の声に、ジーノは面白そうな嬉しそうな表情で彼に近づいていく。 「あれです」 ジーノは椿の指指す先をを見た。 こんもりとした低木に咲く小さな白い花が闇に浮かんでいた。 ジーノは、目を閉じ、辺りの空気を吸い込んだ。 鼻腔に広がる、甘い香り。 「ああ、本当だ」 うっとりとしながら、息を吐く。 「とても素敵な匂いだね」 「はい」 ジーノの言葉へ嬉しそうに椿は返事をした。 そんな、椿をジーノは満足げに見つめた。 ふっと顔を綻ばす。 「あ、……の?」 「バッキーは物知りだね」 「俺、この花、好きだったんですよね」 「そう」 もう一度、ジーノは香りを楽しんだ。 「僕も好きになったよ」 行こうか、そう言って椿の手を握った。 二人の間で、コンビニの袋がガサリと遠慮をしたいるかのように小さく音を立てた。 「はい」 椿は元気よく返事をし、名残を惜しむかのように匂いを吸い込む。 やはり、昔の、彼の記憶の中にある匂いよりも、甘やかな香りだった。 一歩先に行ったジーノが椿を振り返った。 その美しく華やかな顔に、椿は何故か納得した。 夜が美しい者をより美しく、甘い香りをより甘くするものなのだ、と。 090302
|