◆エピファニーア◆ バッキー、大きな靴下を持ってきて。そうだな、クリスマスに子供がサンタさんのプレゼント用にする位、大きなの。 よろしくね、うふふ、と一方的に携帯の通話は切れた。 三が日を実家で過ごし、まだいいじゃない、という母親の言葉に曖昧な笑みを浮かべ、仕事始めだという姉の出社と一緒に東京に帰ってきたのが昨日。母親に持たされた大量の食糧をなんとかそれぞれの場所に収め、実家と違う狭い風呂に入り、それでも、久しぶりに帰ってきた自分の部屋に安心し、またフットボールの練習ができることにウキウキして眠りに就いたのだった。 翌日、つまり今日、クラブハウスへ練習始めをしに行った椿は、練習中に散歩にきたのか椿をからかいに来たのかわからない達海と話し、その上、遊びに来ていた子供たちと一緒に練習という名のゲームをし、子供たちに、椿もやるな、と感心され、一応プロ選手なのだが、と思いつつもどことなく嬉しくなって、今年一年、いいことがあるかもしれないという単純なことを考えながら、子供たちと監督とを見送り、もう少しだけと体をほぐして練習を終え、シャワーを浴びて、帰ろうか、とした時に、時刻確認のために携帯電話を見た。 平素、椿は携帯を使うことは滅多にない。 椿の日常はひどく単純で、家とクラブハウスの往復で事足りてしまうのだ。遊び友達もあまりいなく、時折、小学校の同級生と遊ぶくらいだが、生活スタイルの違いもあり年に2、3度だ、携帯電話も実家からの電話に出る位の役にしかたっていなかった。 だが、今は、もう一人、椿の携帯へとコールしてくる人がいる。 着信履歴を見、椿は慌てて通話ボタンを押す。 自動的に番号がダイヤルされ、数字の苦手な椿にとってはありがたい機能だ、数回コール音が響く。 コール音がしている間、椿の心臓はどきどきしっぱなしだ。 何の用事だろう、とか、どうやって話をすればいいのだろう、とか、ただの間違い電話だったのかも、とか色々なことを短い間に考えて、しまいには、電話に出て欲しくないような気持ちになって、どうして自分は反射的に電話を返してしまったのだろう、メールにすればよかったのに、と余計なことまで思ってしまう。 だが、椿の意に反し、相手が電話にでた。勿論、電話に出なかったら出なかったで、迷惑だったかもしれない、から始まって、面倒だと思われたのだろうか、嫌われたかもしれない、と極論にはしってしまうのだが。 あ、王子、と椿がドキドキしながら言葉を発すると、電話口で彼の人が笑ったのが分かった。 笑われた、と更に心臓がドキドキして、あの、その、電話、とやっと単語だけ並べると、あけましておめでとう、バッキーと美しい声が流れてきた。 慌てて椿も、お、おめでとうございます、今年もよろしくお願いします、と返事をしたら、今度は声を立てて笑われた。 そうだ、バッキー。黙ってしまった椿の耳に、陽気な声が聞こえる。はい。返事をすると、夜、ウチにおいでよ、新年会をしようじゃないか、と続いた。彼の提案は、椿にとって抗いがたい命令であって、はい、と素直に頷くことしか許されないのだ。 よかった、と電話の向こうで再び微笑している気配がして、彼が喜んでくれたことが、椿にも嬉しくて、楽しみにしてます、と本心から伝えた。そんな椿の声に満足したのか、うふふ、と彼特有の笑い声がした。 それで、持ってきて欲しいものがあるんだ。 少しだけ意地悪な調子になった声に、椿は思わず背筋を伸ばした。 こういう時は、かぐや姫みたいな実現不可能な要求ではないにしろ、世知に長けていない椿にとっては難しいと感じるくらいの要求をされるのがいつものパターンであった。 一体何を持って来いというのだろうか。幸い、ここは東京で、椿の田舎と違い、大抵のものは買うことができる。そういうただのお使いならば、椿でも何とかなる、最近は彼に教わって色々な種類のお店に詳しくなってきているのだ、のではないかろうか。 そんな椿の希望的予想を、彼はあっさりと裏切ったのだ。 いらっしゃい、今、料理を作っていたんだ。エレガントに笑った男に、椿は暫し見とれ、バッキー、早く入りなよ、と微笑まれた。 椿は慌てて、男のシンプルな、だが独特の審美眼で厳選された家具が配置されている部屋に入った。 コート脱いで、そこにかけて。そしたら、こっち来て食器運ぶの手伝ってね。テキパキと指示を出す彼に頷き、言われたとおりに行動する。指示されたほどテキパキとはできなかったものの、なんとか合格点をもらったようであった。 ところで、王子。 絶妙な味付けの、素直に美味しいと思える料理を味わいながら、靴下持ってきたんですけど、何を……、と椿は訊ねた。そんな椿の顔を見つめ、そうだね、バッキー、どんなの持ってきたのか見せて、と小首を傾げ、ワイングラスを揺らす。他の者がやったら、白けてしまうような仕草も、この男がすると、どこまでも優雅で美しく感じてしまう。さすがはフットボールのような暴力的なスポーツをも優美にこなす男だと、椿は雰囲気に呑まれてしまう。 フリスビーを投げられた犬のように、椿は持参した紙袋から中身を取り出すと、彼へと差し出した。包みを開けて、と言われ、ガサガサと包装を解く。 へぇ、よくあったね、と自分で頼んだことなのに、人ごとのような顔をして感心し、ちょっと汚れてるけど、まぁ、いいか、バッキー、あそこの暖炉に吊るしてきてよ、とニコリと笑った。 確かに、正月も開けたこの時期に、クリスマスの時期ですら目にしない大きな靴下を探すのは容易ではなかった。商店街を歩きまわり、どうしようかと途方に暮れている時、ちょっと遅い初詣に来たのだという後藤に出会った。椿も大変だな、とどことなく同情した後藤が、そういえば、と示唆した場所が、クラブハウスの物置であった。 去年のクリスマスにクラブ主催のパーティーがあり、その時にツリーに飾ったのを後藤が思い出したのだ。お参りすんだら倉庫の鍵を開けてやるよ、という後藤の申し出をありがたく受け、椿も一緒に参拝をし、後藤と一緒に電車に揺られ、クラブハウスへと舞い戻ったのだった。確かこのあたりに、と言いながら探し出してくれた、いかにも絵本に出てきそうな靴下を受取り帰ろうとする椿に、プレゼントなんだろ、包装した方がいいのではないか、と気配りのある提案をし、広報室で勝手に取り出した包装紙で包んでくれもした。 椿は至れり尽くせりの後藤に感謝し、お寺の前で出会えたことに感謝した。何となく、ついている、と思ったのだ。 そんな苦労を何気なく語れるほど椿のトークスキルは高くなく、笑いながら下される命令に黙々と従うだけだった。 ビクトリア朝というよりは、現代的なスタイルの暖炉に行き、どうやって吊るそうかと考える。元々がクリスマスツリー用の飾りだったものだ。引っかける場所さえあれば、と探し、暖炉の側面に装飾の一部のようにして附いている火掻棒を見つけ、そこに引っかけた。 ああ、いいね。雰囲気が出たよ。この部屋で火を焚くことはできないから、使ったことはないんだけど、やっぱり冬は暖炉の火が一番だよね、と冬は炬燵にみかんという典型的日本人の椿には程遠いことを言ってのけ、さぁ、新年会の続きをしよう、と手招きをした。 椿はとことことテーブルに戻り、用意されたご馳走に取りかかる。 空いたグラスにワインを注ぎながら、男が椿を見つめている。何か変なことをしているだろうか、と緊張してしまい、動きがぎこちなくなってしまった。お、美味しいです。王子。と、言わないよりは言った方がいいことを言って、すぐに後悔する。もっと気の利いたことが言えないのか、と。そんなストレートな称賛に慣れているのだろうか、彼は、うん、僕が作ったんだもの、美味しいのは当たり前だよ。それにしても、バッキーの食べっぷりは本当に気持ちがいいよね、僕も料理を作る張り合いが出るよ。一人用の食事って、作るのも大変でしょ、バッキーが来てくれると、三人分くらい作っても大丈夫なんだもの、と褒めてるのかどうが微妙な感想を述べ、自分は、夜はあまり炭水化物を取らないようにしているんだ、と言いながらチーズとワインを嗜んでいる。体が資本の仕事なのだから、気にするのも当たり前で、椿も、一瞬気になったものの、バッキーはまだ若いんだからどんどん食べなきゃ、と言われ、テーブルに載っている皿を征服し始めた。 黙々と食べてばかりではいけないと思いつつ、何を話していいのか分らず、とりあえず、椿は男が適当に話すことに相槌を打ちながら、食事をした。 そうそう、ナターレの時期に帰れなかったから、新年のお祝は親戚が集まってパーティーだったんだよ、とても楽しかったね、と話す男に、椿は部屋に入って来た時に思った疑問を問うてみた。お、王子。新年会って、他に誰も呼んでないんですか、と、今の状況を見れば答えは一発で分かる間抜けな質問ではあったが、ああ、君と二人で祝いたい気分だったんだよ、と艶やかに笑うのだ。 その言葉と態度に、椿の体温が急上昇し、落ちつけ、と心の中で呪文を唱える。 そうだ、バッキー。 椿の心情など斟酌せず、男はじっと黒い瞳で椿を見つめた。 はい、と少し上ずった声で答えた椿に、神妙な顔つきをし、ねぇ、姫始めって知ってる、と尋ねてきた。 椿は、きょとんとし、知りません、と正直に答えた。初めて聞いた単語である。語彙が少ない椿にはどのような意味なのか、皆目見当もつかない。 ああ、そう。そうれじゃぁ、食事が終わったら教えてあげる。楽しげに笑い、デザートもあるけど、食べる、と椿の答えを聞く前に男は席を立つ。 正直、美味しい料理をほぼ一人で食べ、ワインもそれなりに飲んでいたため、満腹に近い状況ではあったが、この楽しい食卓が終わってしまうのが勿体なくて、椿は用意されたデザートも食べる気でいた。王子が、自分のためにわざわざ用意してくれたのだし、と感激しつつ、はい、と素直に返事をした。 姫始めの意味を知り、目覚めてみると、珍しく男は先に起きていたらしくベッドにその姿がなかった。 何か予定があったのかもしれない、と慌てて椿が最低限の衣服を身につけ、寝室からリビングへと男の姿を探して歩いた。 ああ、早かったね、と椿を一瞥し、コーヒーを飲んでいる彼は、シャワーを浴びてきたばかりのようで、急に椿は昨夜のことをフラッシュバックし、恥ずかしくなってしまった。 そんな所に立ってないで、バッキーもシャワーを浴びてきたら。あと、昨日の靴下を外しておいてね。それだけ言うと、コーヒー片手に新聞に目を落としてしまう。 仕方なく椿は、言われたとおりにシャワーをできるだけ素早く浴び、きちんと着替えると昨夜言われるままに吊るした靴下を回収しにかかった。 あれ、と思わず声に出し、靴下を火掻棒から外す。靴下が膨らんでいる。何かが中に入っているようで、とりあえず外した靴下を持って、椿は男の傍までやってきた。バッキーもコーヒーを飲むかい、とカップに強いコーヒーを注ぎ、ミルクを入れてくれる。 あの、王子、と靴下を差し出すと、今日はね、と何でもないように話し出す、エピファニーアでね、優しい魔女のべファーナが靴下の中にプレゼントをくれる日なんだよ。いい子にはお菓子で、悪い子は炭なんだ。バッキーはどっちだろうね、ときょとんとしている椿へと悪戯な視線を向ける。男の話を咀嚼し、はっとなった椿が慌てて靴下の中を探る。 お、お菓子でした。神妙に報告し、バッキーはベッドだと悪い子だけど、他はとてもいい子だからお菓子が貰えたね、とくすくす笑われ、やっとからかわれたことに気づいた。 だが、決して嫌な気持ちはせず、う、嬉しいです、と椿は真顔で返事をした。 ねぇ、バッキー。そんな椿を満足そうに見つめ、来年は君が魔女の役目だからね、僕はエピファニーアって好きなんだよ、とどこか懐かしそうに言うのだ。 彼の言葉に含まれる、様々な意味に気づく前に、椿は、はい、と返事をし、ミルクが入っているコーヒーを飲んだ。 男は、目の前の少年のような青年を満足そうに眺め、新年早々愉快な気分になったのだった。 100114
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