◆ひとかけらの日常◆ 「寒い寒い寒い。後藤なんとかして!」 クラブハウスを自宅兼職場にしている監督からのオファーに、残業をしていた後藤は、またか、という表情で対応した。 「達海」 「うわ、何この部屋。すげーあったかいじゃん」 拗ねたように口を尖らせ、適当な椅子に腰かける。 そんな達海に後藤はこれ見よがしにため息をつく。 「お前、急にそんなこと言われても」 「えー、後藤、何でもやるから監督になってくれっていったじゃん。約束守れよ」 「そ、そんなこと言ったか?」 「言ったね。お前が言わなくても俺にはちゃんと聞こえてたもん」 そんな二人のやり取りに、帰り支度を済ませていた有里がくすくすと笑う。 「ほら、有里ちゃんにも笑われただろ」 後藤が達海を窘める。 「あ、ごめんなさい。何だか二人とも可笑しくて」 ふくれっ面をしながらも尊大な態度で後藤を見ている達海の姿を眺める。 「確かに、この所急に寒くなったわよね」 「だろ」 我が意を得たりと、達海が満足そうな顔をする。 「監督が風邪ひいちゃうっていうのも、選手に示しがつかないし……」 思いもかけない援護射撃に、後藤は降参、と息を吐く。尤も、最初から後藤の負けは決まっているようなものだったのだが。 「分かった。どうにかするよ」 小悪魔のような笑みを浮かべる達海に、 「貸しだからね、達海さん。今度のインタビューはちゃんと時間通りに来るように!」 とちゃっかり念を押し、「お先に」と足取りも軽やかに有里が手を振る。 有里の後姿を見送り、 「何、あれ」 と達海が小さく呟いた。 「やられたな、達海」 後藤が笑いながら立ちあがる。 「コーヒーでいいか?」 一応尋ね、答えも待たずにサーバーから紙コップへとコーヒーを注いだ。 「ほら」 手渡す。 「あったかい」 そう言い、紙コップで暖をとりながら、息をコーヒーへと吹きかける。 背中を丸めている達海を眺め、猫舌なのは相変わらずだ、と後藤は懐かしく思った。 「あちっ」 それでも目の前のコーヒーを飲もうとして軽く火傷をする姿も懐かしい。 「何、笑ってんだよ」 達海のむくれ顔を見て、やはり懐かしく思う。 「話は戻るけど、暖房」 そんな郷愁を振り払うように、後藤は席に戻り、自分の冷めたコーヒーを飲んだ。 「今日明日とかは無理だからな」 「えー。カゼひいちゃうじゃん」 だたっ子のように頬を膨らませ、だらしなく座っている足を伸ばす。 「もともと物置だった所に住む方が悪いんだろ」 やんわりと窘める。達海はむくれたまま。 「だけど、まぁ、確かに有里ちゃんの言うとおり、監督が風邪引いたら選手に示しがつかないよな」 ふぅ、とため息をつく。さて、どうしたものか。布団にくるまって寝れば密閉された部屋の中なのだし、しのげない寒さではないが、果たしてあの部屋に厚手の布団はあっただろうか。 「後藤、何考え込んでんの?」 「え?」 「眉間に皺が寄ってる」 勢いよく立ちあがり、達海は後藤の眉間を人差し指で押した。 色素の薄い瞳が後藤を覗き込む。茫洋としているようで、鋭い視線は、後藤の心の底まで見透かしてしまうようで……。 「あ、今、えろいこと考えてただろ」 「はぁ?」 達海が笑う。 「か、考えてないぞ」 確かに、綺麗な目だな位は思っていたかもしれないが、エロい事なぞ断じて考えていなかった。 「残念」 「え……」 あっさりという達海に驚き、それを隠すように小さく咳払いをした。 「とにかく、今夜お前がここで寝たら風邪引くかもしれないからな。対策を練ってたんだよ」 達海の指から逃れようと頭をめぐらした後藤に、嫌がらせのように顔を近づけ達海は人の悪そうな笑みを浮かべた。 「そんなん、簡単じゃん」 達海が目を細める。まるで獲物を前にした猫のようで。後藤は、少しばかり悪い予感がした。 「何が……」 それでも訊かずにおれない。 「お前ん家で寝れば問題ないだろ」 さらりと発せられた達海の発言に後藤は目を丸くする。 「……嫌、なのか?」 「いや……」 「嫌なんだ」 ぷいと達海が顔を背ける。 「嫌、というわけじゃない」 「何、それ」 煮え切らない後藤にそっぽを向いたまま達海が言う。 「嫌、ならいいよ。俺、カゼひくから、いいよ」 離れていく達海の腕を掴む。達海の手にあったカップの中でコーヒーの表面が揺らいだ。 「待て、分かった」 観念したように後藤が言う。 これで、今日の残業切り上げと持ち帰り仕事のなしが決まった。明日の休みも、達海と過ごすことになるのは確定で、明後日からの仕事量が一気に増えることになった。 明日の、休み……? 後藤は達海の顔をまじまじと見た。 達海は後藤と目が合うと、はっとしたように視線を背け、ほんのりと頬を染める。 そんな達海を見て、後藤は微かに笑った。 「何、笑ってんだよ」 視線を逸らしたまま、達海が小さく呟く。 「ちょっと待ってろ。今、この書類を片付けるから」 「……早くしろよ」 やはりそっぽを向いたまま、隣の椅子にどかりと座り込む。コーヒーを飲み、 「後藤、コーヒーが冷めた」 と文句を言う。 「我慢してろよ。家に帰ったら、ちゃんとしたの淹れてやるから」 頬をゆるませながら、後藤は書類を片付けるべく机に向かった。 101115
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