◆510の日◆ 気づいたら、達海を組敷いていた。 クラブハウスの元ロッカー室にある、まるで戦時中の病院か刑務所のような寝心地など考えていない味気ないパイプベッドで。 確か、あれは、……。 そう。 後藤が帰宅しようとして、外に出た時、達海の部屋の明かりがついていることに気付いたのだった。 また、作戦をたてているのだろうか、と思い、そのまま帰ろうと歩いたのだけど、何だか分からないが大切なものを忘れているような、そんな信号が頭の片隅で点滅していて、後藤は踵を返すと達海の部屋の窓を叩いていたのだった。 どこまでもマイペースな監督は、作業に没頭していたのだが、何度か窓を叩くうちにやっと後藤に気付いたのだった。 不審人物を見るように、目を眇め、達海は後藤を見た。 そんな反応に後藤は、自分は何をやっているのだろうか、と苦笑いするしかできずにいた。 束の間、ガラスのこちらと向こうでにらみ合いが続いた。 このままここに突っ立っていたら、それこそ不審人物になってしまうと、後藤は軽く肩を竦め、帰ろうとした。 だが、ちょうどその時。 まるで一番効果的な演出を計ったかのようなタイミングで、達海が緩慢と立ち上がるとぼさぼさの髪に手を突っ込みながら、窓辺までやってきたのだ。 こうなっては後藤も帰るに帰れなくなり、達海がゆっくりと窓の鍵を開け、鍵を掛けていたこと自体に驚いたが、窓を開けた。 「よう」 「……よう」 何でもない風に挨拶されると、気まずさが先に立ってきてしまうのはどうしてだろうか。 別に自分は疚しいことはしていないのに。 「まだ、仕事か」 この状況を見れば答えは明白であろう質問が、つい、口から出てしまう。 「うーん」 だが、達海は小首を傾げながら、少し考え込んだ。 「後藤は?」 どこか舌っ足らずに発せられる、”後藤”という言葉のニュアンスが、いつでも後藤をくすぐったい気持にさせる。 「今、帰るところだよ」 これでは、会話が終わってしまう。 第一、特に用事があって達海の様子を見に来たわけでもないのだ。 明日も練習があるのだから、程々にするようにと注意を促すためだけに、寄ったようなものなのだ。 「ふーん」 達海が窓枠に手をかけた。 「明日も」 「なぁ、こっちにこないのか?」 後藤が注意をしようとした、その瞬間、やはり達海は計ったように言葉を重ねてくる。 しかし、その表情はどちらでもいい、とでもいうような、どこかぼんやりとしたもので……。 「あ、ああ」 「じゃ、そこから入ってこいよ」 躊躇いがちに後藤が返答をすると、達海は、決定事項のように指示をし、自分は背を向けて再びテレビの前に座ってしまった。 ここから、と言ったが、もう一度建物に入って、ちゃんと向こう側のドアから入るべきなのではないか。 そんなことを後藤は考えたが、もう一度セキュリティを解除して、弱小とはいえサッカークラブのクラブハウスなのだ、一応セキュリティの契約位はしてある、ぐるっと回って部屋に入るのが少し億劫になってしまった。 もしかしたら、真夜中という時間帯が、後藤をして少しハイにさせていたのかもしれない。 手にした荷物を部屋に放り込み、窓枠に手をかける。 一瞬、このまま体重をかけても大丈夫だろうかと疑念がよぎったが、老朽化が進んでいるとしても大丈夫であろうと前向きに考えると、元々が出入りのための場所ではないため、窮屈ではあったが、何とか窓から部屋の中に入り込んだ。 部屋に着地する前に、器用に靴を脱いだ後藤を見て達海がぷっと笑った。 「笑うなよ」 「いやぁ」 一応謝罪のような反応はしたものの、達海はくすくすと笑いだした。「何だよ」後藤は律儀に靴を部屋の外に置くと、達海の隣に腰かけた。 「いや、昔みたいだな、ってさ」 微かに懐かしげに達海がぼそりと言う。 達海が昔の事を懐かしむのは、とても珍しいことで、後藤はおやとテレビ画面に戻った達海の横顔を見た。 「ん?」 照れくさいのか、まるで今初めて気がついたという風に、視線を行き過ぎさせてから戻すようにして達海が後藤へと向けた。 睨むような強い視線で後藤を威嚇し、にへらと悪戯っ子のように笑った。 後藤の首根っこを掴むと、唇を寄せる。 唇が軽く触れる。 ただ、それだけ。 そのまま離れると、達海は後藤の首を抑えたまま、にひっと笑った。 後藤を挑発するような、笑い。 後藤はそんな達海の茶色がかった目を見つめ。 ――挑発、された。 ぐちゃぐちゃな達海の髪へと手を埋め、頭を掴むように指を絡める。 引き寄せ、キスを交わす。 達海も微かに唇を開いき、後藤に応える。 引き寄せ合うように貪った。 「……っ」 不意に、達海が後藤から離れる。 「悪い」 後藤が反射的に謝った。 勝手に部屋に入ってきて、達海に招かれたといえば招かれたのだが、勝手に挑発されて、勝手に行き過ぎたキスをしたのだ。 「んー」 少し困ったように、達海は眉を寄せた。 「いや、そうじゃなくて」 後藤の首を掴んでいた手を滑らすようにしながら、達海が立ち上がる。 首の後ろがゾクリとした。 「……どうせなら、ベッドのがいい」 にやりと人の悪そうな笑みを浮かべると、名残惜しそうにその手が後藤の髪を撫でた。 数歩の距離を移動して、ベッドへと腰かける。腰を浮かしかけた後藤に向かい、両手を広げた。 一瞬、後藤を軽くねめつけ、視線を外す。 後藤は困ったような振りをして、達海の体を抱きながらベッドへと組み敷いたのだった。 軽いキスを交わす。 「……スーツ。皺になるぞ」 「ああ」 変な所で心配性な達海の言葉に従い、後藤が上着を脱いだ。 脱いだ上着は、床に投げ捨てられる。 どちらにせよ、これでは、皺ができてしまうな、と一人苦笑した。 「何だよ……」 「いや」 達海の額に手を当て、髪を逆撫でる。 ぞわり、と達海が動いた。 そのまま雰囲気に呑まれそうになった後藤であったが、呑まれてしまってもよかったのだが、最後の理性が言葉になった。 「なぁ」 躊躇いがちな後藤へと達海が不思議そうな顔を向けた。 「いいの……か?」 虚を突かれたように、達海は放心して後藤をまじまじと見ると、次の瞬間、後藤の背中を叩きながら、笑った。 「お前さぁ、この状況でそういうこと訊くか?」 「いや、そうじゃなくて」 「何だよ?」 「明日も練習があるだろ」 明らかに言いわけじみている、それは達海に対してというより自分自身に対してなのだが、言葉を呟きながら、後藤は達海の顔を見る。 「いいんじゃないの。お前さえよければ」 達海は判断を委ねる言葉を出しながら、後藤の背中をまさぐった。 「ずるいな」 後藤はそう感想を述べると、達海の唇を塞ぐ。 先程よりも深くキスをし、離した。 「一応、監督だからさ。心理戦は得意なんだよね」 勝ち誇ったように笑った達海が、静かに目を伏せる。 後藤は唇を綻ばし、それを達海へと重ねた。 110510
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